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ようやく、涙が止まった頃。山吹はソワソワと、落ち着きを失くしていた。
山吹の落ち着きが失われている理由を『まだ抱擁に慣れないのか』と思っている桃枝は、特に深く考えないまま山吹の背を撫でる。
「あの、課長……っ」
「ん?」
背を撫でられて、笑みを向けられて。
「ボクのこと、好きですか?」
声に、不必要な【色】が乗った。
それは、相手を誘惑する色。相手を自分の思う通りに支配し、絡め取り、思考を自分で埋め尽くすための色だ。
こうした手法を用いたことがないと言えば、それは確実に嘘である。そう言えば、きっと桃枝は嫌がるだろう。
……だが、いい。でも、いいのだ。
「課長から『好き』って、言われたいです」
素直に【愛情】だけを求めて、素直に【山吹】だけを求めてほしい。
こんなにもピュアで、無垢な下心。肉欲ではない欲求から滲み出た色は、初めてだから。
すぐに、桃枝は頷く。山吹の頬を撫でてから、桃枝は小さな笑みを浮かべたまま言葉を紡いだ。
「あぁ、好きだ」
「一番ですか?」
「一番だ。それに、一生──あぁ、いや。一先ず、今年中は好きだぞ」
以前、山吹から『重い』と言われたことを思い出したのだろう。山吹に言われたことはなんでも改善しようとする、桃枝の素直な部分だ。
しかし、その時と今では心持ちが違う。山吹はぷくっと頬を膨らませて、わざとらしいほど『拗ねています』とアピールする。
「『一生』が、いいです。一生、好きでいてください」
「──死んでも愛してるぞ、山吹」
「──えっ、いやあのっ、圧が凄いです、圧が」
両手を握られ、まるでプロポーズかのような迫真さ。すっかり、いつもの調子だ。
「山吹、キスしてもいいか」
「っ。は、はい。お願い、します」
「あぁ」
つんと、触れる程度のキス。すぐに顔が離れるも、桃枝は眉を寄せていた。
「なんでそんな必死に目を閉じるんだよ。お前、いつもそんな感じじゃなかっただろ」
「恥ずかしくて、その……っ」
「涙で汚れた顔がか?」
「課長ってホント、デリカシーなさすぎです」
なぜか怒られ、桃枝は静かにショックを受けている。
それが可笑しくて、山吹は吹き出す。
「ぷっ、あははっ! なんだかボクたちって、仲直りの仕方が変ですよね? ぬるっと終わる感じで、ケンカしていたはずなのになんだか……調子が狂います」
「と言われても、俺は誰かと喧嘩したことがないからな」
「そう言われると、ボクにもケンカの経験がないです」
それは、喧嘩もままならないか。互いに納得を交わす。
目を見て、言葉もなく笑みを浮かべて、身を寄せる。たったこれだけのことをするのに、いったい山吹はなにを悩んでいたのだろう。終わってしまうと、不思議な気持ちだった。
「一度、顔を洗ってきてもいいですか?」
「気にせず行ってこい」
不必要にも思えるような遠回りだったが、これは必要だったに決まっている。封じ込め、奥底にしまいこんでいた気持ちを引っ張り出せた今日と言う日が、不必要だったわけがないのだから。
洗面所で顔を洗った山吹は、清々しい表情の自分を割れた鏡越しに見つめて、自然な笑みを浮かべてしまった。
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