204 / 465

7 : 28

 ようやく、涙が止まった頃。山吹はソワソワと、落ち着きを失くしていた。  山吹の落ち着きが失われている理由を『まだ抱擁に慣れないのか』と思っている桃枝は、特に深く考えないまま山吹の背を撫でる。 「あの、課長……っ」 「ん?」  背を撫でられて、笑みを向けられて。 「ボクのこと、好きですか?」  声に、不必要な【色】が乗った。  それは、相手を誘惑する色。相手を自分の思う通りに支配し、絡め取り、思考を自分で埋め尽くすための色だ。  こうした手法を用いたことがないと言えば、それは確実に嘘である。そう言えば、きっと桃枝は嫌がるだろう。  ……だが、いい。でも、いいのだ。 「課長から『好き』って、言われたいです」  素直に【愛情】だけを求めて、素直に【山吹】だけを求めてほしい。  こんなにもピュアで、無垢な下心。肉欲ではない欲求から滲み出た色は、初めてだから。  すぐに、桃枝は頷く。山吹の頬を撫でてから、桃枝は小さな笑みを浮かべたまま言葉を紡いだ。 「あぁ、好きだ」 「一番ですか?」 「一番だ。それに、一生──あぁ、いや。一先ず、今年中は好きだぞ」  以前、山吹から『重い』と言われたことを思い出したのだろう。山吹に言われたことはなんでも改善しようとする、桃枝の素直な部分だ。  しかし、その時と今では心持ちが違う。山吹はぷくっと頬を膨らませて、わざとらしいほど『拗ねています』とアピールする。 「『一生』が、いいです。一生、好きでいてください」 「──死んでも愛してるぞ、山吹」 「──えっ、いやあのっ、圧が凄いです、圧が」  両手を握られ、まるでプロポーズかのような迫真さ。すっかり、いつもの調子だ。 「山吹、キスしてもいいか」 「っ。は、はい。お願い、します」 「あぁ」  つんと、触れる程度のキス。すぐに顔が離れるも、桃枝は眉を寄せていた。 「なんでそんな必死に目を閉じるんだよ。お前、いつもそんな感じじゃなかっただろ」 「恥ずかしくて、その……っ」 「涙で汚れた顔がか?」 「課長ってホント、デリカシーなさすぎです」  なぜか怒られ、桃枝は静かにショックを受けている。  それが可笑しくて、山吹は吹き出す。 「ぷっ、あははっ! なんだかボクたちって、仲直りの仕方が変ですよね? ぬるっと終わる感じで、ケンカしていたはずなのになんだか……調子が狂います」 「と言われても、俺は誰かと喧嘩したことがないからな」 「そう言われると、ボクにもケンカの経験がないです」  それは、喧嘩もままならないか。互いに納得を交わす。  目を見て、言葉もなく笑みを浮かべて、身を寄せる。たったこれだけのことをするのに、いったい山吹はなにを悩んでいたのだろう。終わってしまうと、不思議な気持ちだった。 「一度、顔を洗ってきてもいいですか?」 「気にせず行ってこい」  不必要にも思えるような遠回りだったが、これは必要だったに決まっている。封じ込め、奥底にしまいこんでいた気持ちを引っ張り出せた今日と言う日が、不必要だったわけがないのだから。  洗面所で顔を洗った山吹は、清々しい表情の自分を割れた鏡越しに見つめて、自然な笑みを浮かべてしまった。

ともだちにシェアしよう!