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8章【軋む車輪は油を差される】 1

 遡ること、数日前。  黒法師を駅まで無事に送り届けた桃枝は、山吹をアパートに送ってからマンションへと帰宅。その際、桃枝から『夜に電話をする』と言われた山吹は、フワフワとした気持ちで夜を待っていた。  そして、待ち望んでいた時間──桃枝からの着信を受けた山吹は、やはりフワフワとした気持ちで桃枝の声を聴いていたのだ。  だからこそ、山吹は感情にタイムラグを生じさせてしまった。 『──次の火曜日、祝日だろ? だから……その、あれだ。映画を、観に行かないか?』  次の、火曜日。四月二十九日は、確かに祝日だ。山吹は桃枝の声に聞き惚れつつ、告げられた単語をただただ呟き返す。 「映画……」 『いや、映画っつぅか。なんだ、ほら。分かるだろ』  間が、ほんの数秒。口ごもるところも桃枝らしいと、山吹はやはり惚けてしまう。  そんな山吹には当然ながら気付かず、桃枝はなんとか言葉を生んだ。 『──つまり……デートの誘い、だっつの。なんで、分かんねぇんだよ』  思いを必死に告げた桃枝が、どれだけ気恥ずかしそうでも。山吹は今までのように、揶揄えそうもなかった。  なぜなら……。 「っ! デート、ですかっ? ボクとっ?」  桃枝からの誘いに、信じられないほど浮かれてしまっていたのだから。  あの夜──自らの気持ちに気付いてから、山吹は自覚できてしまうほど、おかしくなっていた。  桃枝から与えられる全てが愛おしく、桃枝を相手にすると今まで以上に自分を律することができない。簡単に心が乱され、表情筋が楽し気に動き、体がワクワクと意味もなく弾む。どう考えても、山吹はおかしくなっていた。 『なんでお前以外の奴を誘うんだよ』  桃枝から向けられる、素っ気なくも真っ直ぐな愛情。今までも与えられていたはずの気持ちが、こんなにも嬉しいものだったなんて。どうして今まで、山吹は受け入れようとしなかったのか。  嬉しくて、嬉しくて、ただただ純粋に嬉しいから。山吹はスマホをしっかりと握り直し、自然と背筋も正してしまう。 「かっ、課長っ」 『なんだ?』 「ボクは、ですね? ボクは、その。かっ、課長が……っ」  貰ってばかりでは、いけない。むしろ今まで、山吹は貰ってばかりが過ぎる男だった。  これからは、少しずつでも確実に、桃枝へ大切なものを渡したい。貰った以上の愛情や幸福を、山吹なりの形で示したかった。  そのために、必要なことがひとつ。大前提に、山吹は未だに桃枝相手にたった一言の感情すら伝えられていない。  今日こそ、絶対に伝える。高鳴る鼓動を感じつつ、山吹は必死に言葉を紡いだ。 「──課長、が……す、好き、な。好きな映画を、見たいです……」 『──俺の?』  違う。セルフツッコミを内心で素早く入れるも、発言は撤回できない。  なぜ、たった一言が言えないのだろう。今は目の前に本人がいるわけでもなく、普段よりも難易度が易しくなっているはずなのに。 『確かに、誘ったのは俺だからな。分かった、考えておく』 「わ、わーい。楽しみ、ですー……」  山吹の落胆に気付く術もない桃枝は、すっかり普段通りだ。  普段通りになれないのは、山吹だけ。立場が逆転してしまったような状況に、それでも山吹は肩を落とすしかできなかった。

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