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山吹の腕を掴んだままのナンパ男は、意外なことに平然とした態度だ。
「あれ、出かけるのってお兄ちゃんと? それなら、お兄ちゃんも一緒にお出掛けしよっか? なんなら、こっちも何人かダチ呼ぶし」
「えっ、お兄ちゃん? あっ、えっと、この人は……」
恋人です、と。そう言いたいのに、意識すると顔が熱くなってしまう。
しかし、意外だ。まさか桃枝に凄まれて、怯えない人類がいたとは。山吹は的外れなことを考えながら、熱くなった顔をなんとか冷ます。
平然としているナンパ男と、勝手に照れて勝手に精神統一を始める恋人。異色すぎる光景の中、ただ一人正常な動作をするのは桃枝だけ。それもまた、可笑しな状況だった。
露骨なほど不機嫌になった桃枝は、わざとかと思えるほど盛大な舌打ちをする。それから、山吹に手を伸ばして──。
「──兄と出掛けるのに、ここまで気合いを入れる奴がいるか?」
すぐに、山吹の肩を抱き寄せた。
ナンパ男の手からなんとか逃れられた山吹は、咄嗟に桃枝を見上げる。
「ナンパ、成功するといいな」
蔑むような目を男に向けた後、桃枝は山吹の腕を掴む。
いけない、と。山吹は咄嗟に、自らを律した。
──冷たい眼差しに、思わずときめいてしまったなんて。口が裂けても、言ってはいけないと分かっているからだ。
腕を掴まれたまま、山吹は桃枝の車まで引っ張られる。助手席側にまで連れていかれると、桃枝がすぐに車のドアを開けた。早く乗れ、と言う意味だろう。山吹はすぐに、助手席へと移動した。
運転席に桃枝が座り、避難は完了。コンビニを振り返ると、ナンパ男はばつが悪そうな顔をしてはいるものの、追ってくる気配はなかった。
車内を、静寂が包む。山吹は恐る恐る、運転席に座った桃枝を見つめた。
「課長、さっきの──」
「いきなり肩を掴んで悪かった。痛かったか?」
「えっ? あっ、いえ、大丈夫です。助かり、ました。ありがとうございます」
「それなら、いいんだが。……けど、悪かった。俺が遅れたせいで、変な阿呆に絡まれる羽目になっただろ」
「アホって……」
随分な言い草だが、それだけ不快だったのだろう。今日も桃枝は、山吹を好きでいてくれているという証拠だった。
しかし、山吹が口を開いたのは感謝を伝えるためではない。すぐに山吹は首を横に振り、もう一度言葉を発する。
「でも、そうじゃなくて。……ボク、そんなに気合いが入って見えますか?」
桃枝は先ほど、こう言った。『兄と出掛けるのに、ここまで気合いを入れる奴がいるか?』と。
つまり、桃枝の目には今日の山吹が【気合いの入った男】として映っているという意味。猛烈に照れくさくなった山吹が事実確認をするのは、当然だろう。
問われた桃枝は、すぐにハッとする。
「な、っ! ……わ、悪い。勘違い、か?」
「いや、そうでもなくて……っ」
自惚れだったかと、反省しているのだろう。山吹は慌てて桃枝の言葉を否定し、それからポソッと呟く。
「──分かり易すぎるのかな、って。……課長とのデートに、浮かれてるって」
断固として隠そうというつもりはないが、それでも見え見えなのは照れくさい。山吹は伸ばした後れ毛を意味もなく指に巻きつつ、恥を呟いた後にそっと、俯いた。
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