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二人で列に並ぶ時間が終わり、なぜだか少しの名残惜しさを感じつつ、山吹は桃枝と定食屋に入った。
初めて見る店内を、山吹は物珍しそうに見渡す。視線をキョロキョロと忙しなく動かす山吹に歩く速度を合わせつつ、桃枝は空いている席に座った。
「さて、と。なにを食うか……って、ん?」
そこで、桃枝は動きを止める。なぜなら山吹が、嬉しそうな様子で桃枝の【隣に】座ったのだから。独り言のような声量で「お隣……っ」と呟きながら、それはそれは嬉しそうに。
ほんの少しだけ動揺しつつも、桃枝は隣に座った山吹を見た。
「……なぁ、山吹。お前、俺と外食する時はいつも正面に座ってたよな?」
「そうでしたっけ?」
「なにとぼけてんだよ。……じゃなくて。正面に座った方が、お互いにスペースが広く取れていいだろ」
「うぅん……言われてみると、そうですね。すみません」
だが、動かない。山吹はモジモジと身を揺らしつつ、桃枝を見た。
「でっ、でもっ。隣同士の方が『あーん』とかしやすいですよっ?」
「あ、ッ? しッ、しねぇっつのッ、そんなことッ!」
「そっ、そうですよねっ。すみません、移動します……」
しょんぼりと、山吹は肩を落とす。桃枝の言っていることは、どこを取っても正論だからだ。
「いや、待て」
だが、桃枝は山吹の動きを言葉で制した。
「お前がいいなら、このまま──隣同士のままでも、いい。狭くてもいいなら、お前の好きな方に座ればいい」
「ボクの、好きな方……?」
今しがた、桃枝は隣に座られることを嫌がったのではないか。しかし、山吹の気持ちだけで考えていいのならば動きたくない。山吹は眉を寄せて、静かに悩み始める。
そんな山吹を見てどう思ったのか、桃枝はどことなく気まずそうに後頭部を掻き始めた。
「別に俺は、隣に座られて……その、あれだ。動揺しただけ、だ。だから、つまり……不快、とか。そういうわけじゃ、ねぇから……っ」
そこまで言われて、山吹はようやく気付く。
先ほどの『スペースが広くていい』という言葉は、桃枝個人の不満からではない、と。あの言葉は、山吹への配慮だったのだ。
「では、このままで──このままが、いいです。お隣、失礼します」
「あ、あぁ。いいぞ」
こんなにも簡単な言葉の真意に気付けないなんて、桃枝専用翻訳機の名が廃る。山吹は浮かしかけた腰を下ろし、桃枝の隣を選ぶ。
初めてのデートでもそうだったが、どうにも調子が狂う。桃枝と一緒にいると、なかなか自分のペースを維持できない。
初デートでは、それが不快だった。桃枝にペースを乱され、思う通りに進まない時間が不服だったのだ。
けれど、今は違った。
「俺の隣がいいなんて、お前は変わったな。前までならきっと、俺がお前の隣に座ったら『狭いです』とか『邪魔です』くらい言っただろうに」
「そこまでボクは辛辣な男じゃないですよ」
「どの口が言うんだよ」
こうして、桃枝にペースを乱されること。これは、桃枝と一緒にいないと経験できないことだから。
「けど、今の俺は気分がいい。気持ち的には、そうだな……。いつも威嚇ばかりしてきて全く懐かなかった猫が、ようやく俺に懐いてくれたような。そんな充足感と達成感だ」
「なんですか、それ。ネコちゃんが課長に懐かないのは、課長の目つきが悪いからだと思いますけど?」
「ネコちゃん……。……随分と可愛い呼び方をするんだな」
「ちょっと、人前で頭を撫でるのは……っ。……別に、いいですけど」
変わっていく山吹に、桃枝が気付いている。それがなんとも言えなくて、山吹は不服そうに唇を尖らせつつ、頬をうっすらと赤く染めてしまった。
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