245 / 465

8 : 20

 桃枝の、部屋。自分では思い浮かばなかった行き先を提案され、山吹は驚いた。 「えっ?」 「やめろ、そんな目で見つめるな。どうにかなるだろ」  山吹の頭を撫でたまま、桃枝は続けて提案する。 「お前さえ良ければ、泊まっていけばいい。せっかくだし、どこかで着替えを買わないか? 俺の部屋に置いておけば、これから好きなときに泊まれるだろ」 「好きな、ときに……?」  まるで桃枝らしからぬ提案に、山吹は驚きっぱなしだ。  気付けば、悲しみ所以の涙が止まっている。山吹は一度だけ、すんと鼻をすする。 「また、泊まりに行っていいんですか? 今日だけじゃなくて次のデートも、その次のデートも……デートだけじゃなくて、金曜日の仕事終わりとか。ボクが泊まっても、いいんですか?」 「あぁ、いいぞ。面白いものはなんもねぇけどな」 「課長がいます。だから、どんな場所よりもステキです」  数時間前に、桃枝から告げられた返答。列に並んでいても、山吹の声が聞こえるのなら暇ではない。あの言葉がまさか、こんなにも早く自分の意見として踏襲されるとは。  山吹はティッシュで鼻をかんだ後、パッと顔を上げた。 「それじゃあ、課長の着替えも買いませんか? ボクの部屋に置いておきますから、課長も泊まりに来てください」 「なるほどな。いいことを言うじゃねぇか」  山吹が、笑っている。安堵したのか、桃枝は山吹の頭から手を放した。 「なら、一先ず服が買えるところにでも向かうか。動くから、シートベルトを締めろよ」 「はい。運転、お願いします」 「あぁ、任せろ」  すぐにシートベルトを締め、運転を始めた桃枝の横顔を眺める。  人と話すことが得意ではない桃枝が、こんなにも向き合ってくれているのなら。山吹は桃枝を見つめたまま、口を開く。 「課長、ボク……っ」  今なら、言えそうだ。ジッと桃枝の横顔を見つめながら、山吹は必死に言葉を紡ごうとした。  だが、駐車場を出てすぐ。赤信号によって車を停車させた桃枝が、助手席に座る山吹へと視線を送ってしまった。 「なんだ?」  しかも、笑顔で。どこか柔らかくも男らしいその顔を見て、山吹は反射的に『カッコいい』と考えてしまった。  ゆえに、ポンッと赤面してしまう。すぐに俯き、山吹は必死に言葉を続けようとして……。 「……すっ、好き……な。好きな服を、課長に選んでもらいたい、です」 「なかなかそれは、責任重大だな」  またしても、失敗してしまった。自分はこんなにも駄目な男だったかと、堪らず自己嫌悪してしまう。  そんな中、今度は桃枝が口を開いた。 「ところで……勢いで誘っちまったんだが、本当に良かったのか? 明日は水曜日で、普通に仕事だぞ?」 「そう言われてみると、そうですね。うぅん……課長が会社に着くのって、いつも何時くらいですか?」 「七時半前後だな」  桃枝が、平然としてくれている。調子を取り戻した山吹は、努めて普段通りに会話をした。 「ボクが起きる時間くらいですね。それなら、課長が出勤する時にボクをアパート近くのコンビニに降ろしてください。そこからアパートに戻って出勤準備をすれば、普段通りの時間に出勤できます」 「お前が、それでいいなら」 「はい。お願いします」 「あぁ、分かった。なら、明日の朝はそういう流れで動くぞ」  明日の朝まで、桃枝と居られる。なんのけなしに始まった会話から、山吹は喜びを見つけたのだった。

ともだちにシェアしよう!