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そっと、桃枝の手が頬から離れる。
「山吹、ほら」
桃枝はそう言うと腕を伸ばし、両手を広げて山吹を見つめた。
この行為が、意味するもの。理解すると同時に、山吹は顔を青ざめさせた。
「そ、れは……っ。お、怒らせて、しまうかも、しれません……っ」
「大丈夫だから、来いよ」
「で、でも……っ」
「映画館では肩にもたれかかってくれたじゃねぇか。俺はそれが、映画の内容を忘れるくらい嬉しかったんだぞ」
山吹は恐る恐る、桃枝の目を見る。すると、微笑みを返された。
この男は、嘘を言わない。この男は、山吹のことを優しく愛してくれているのだ。そう、山吹は分かっている。
瞳を伏せて、悩んで。山吹はようやく、意を決した。
「……っ。えいっ!」
「お、っと。……随分と勢いがあるな」
「こういうのは恥じらった方が負けなんです。スピード勝負なんです」
突進のように、桃枝の胸に飛び込む。予想していた以上に勢いのある飛びつきに、桃枝は驚いている様子だ。
だが言葉の通り、桃枝は喜んでいる。山吹の背に腕を回し、愛おしそうに抱き締めているのだから。
「随分と、山吹は素直になったな」
「なんですか。素直じゃなくて、ひねくれた感性を持った虚構まみれなボクの方がお好みでした?」
「いや。お前はお前だろ。いつだって愛おしい男だ」
なんでも、受け入れてくれている。桃枝の胸に顔を埋めた山吹は、くぐもった声で続けた。
「課長が好きになった【無邪気でカワイイ山吹緋花】なんて、もうどこにもいないんですよ。本当のボクは、そんな男じゃないんですから」
「そうだな。打算尽くしで可愛いお前なら、俺の腕の中にいるけどな」
「それ、褒めてますか?」
「一応な」
あまり、褒め言葉には聞こえない。不服そうに唇を尖らせるも、桃枝は気付かなかった。
それどころか、そんな山吹すらも包み込むように、桃枝は優しい声音で囁いたのだ。
「これからはもっと、自分にとっての楽しい時間を増やしてほしい。趣味に、好きなもの。そういったものに時間を使えるようになってほしいと、俺は思う。自分の気持ちを、抑制しないでくれ」
これでは、立場が逆になっている。なにかを教え、感動をさせるのは山吹のはずだったのに。
まるで、上手に甘えられているようで。上手に甘える方法を教え込まれているようで、居心地が悪い。山吹の中には、そんな感情もある。
だが、それでも山吹は離れない。桃枝に抱き着いたまま、会話を続けた。
「じゃあこれからは、ボクからもメッセージを送っていいですか? 今までずっと、受け身だったので」
「あぁ、勿論だ。問題ないどころか、俺としては嬉しい限りだ」
「それと、ごめんなさい。受け身だったくせに、話を広げようともしなかったくせに……何度か、メッセージのことで課長を責めてしまって」
「気にしていないから気にすんな、って言うのも意味が少し違う気もするが。とにかく、気にするな。お前の返信を不快に思ったことはねぇし、お前の指摘を『間違っている』と思ったこともねぇからな」
やはり、桃枝は優しすぎる。なぜ、ここまでしてくれるのだろう。申し訳なさと、過去の我が儘極まりない自分に対する怒りが、山吹を苛む。
山吹は、しみじみと思う。分かるように『返して』と言わなくても、返してくれる人。山吹が『欲しい』と言わなくたって、山吹の欲しいものをくれた人──桃枝は、やはり。
「ボクに課長は、もったいないです。……でも、ヤッパリ課長を手放すことはできません」
こんな身勝手にも、桃枝は怒らない。
「馬鹿言うな。俺の方こそ、お前はもったいないくらいだっつの。お前以外の誰になにを言われたって、俺はお前を手放せないがな」
まるで『同じだ』と言いたげに、柔らかく微笑む桃枝は……。
「そこは『お前に頼まれたって離してやらない』くらい言ってくださいよ」
「お前に頼まれたら考える。話し合いをして、どうにか折れてもらうがな」
「なんですか、それ。弁舌合戦でボクに勝てるとでも?」
「勝つさ。根拠は、今の俺たちの関係だ。俺の勝利の果てに、お前を落とせたわけだからな」
「ぷっ、あははっ! それこそなんですかっ、課長っぽくないですよ?」
やはり、山吹の中で【優しい人】だ。
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