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桃枝の家は、老舗の旅館だ。そこそこの歴史があり、地元や同業者からは一目置かれる存在だったりもする。
幼い頃から、桃枝は様々な大人と関わってきた。客であったり、取引先であったり、どこぞのお偉いさんであったり……。沢山の大人と、桃枝は関わってきた。
──だからこそ、桃枝は【嘘】を嫌うようになったのだ。
美辞麗句、世辞、心にもない言葉。幼い桃枝には、大人たちが紡ぐ【言葉】がどうしても受け入れがたく、苦手で。小さい頃から、桃枝は人と関わることを極端に避けだした。
きっとこうした経緯があったからこそ、桃枝は極端に【嘘】を嫌うようになってしまったのだろう。仮に【嘘】が誰かを喜ばせていたとしても、幼い桃枝の目にはそのやり取りが酷く虚しく映ったのだから。
幼少の頃から見続けていた大人たちのやり取りによって、目線や口角の動きと言った【表情】だけで、桃枝にはなんとなく相手が嘘を吐いているかどうかが分かってしまう。
──だから桃枝は、成長するにつれて【人の顔を、目を見るのが苦手】になってしまった。
しかし、いつまでもそのままではいられない。中学生になった頃、桃枝は人との関わりを見直すことにした。
だが、できるわけがない。今まで避け続けていたせいで、桃枝は人の目を見ないことが【習性】となってしまったのだから。
ゆえに、桃枝は誰かと目を合わせて会話をすることが怖くなってしまった。
自分は緊張し、相手にも緊張をさせてしまう。愛想がない上に元から威圧感を与える見目ということもあり、桃枝の対人能力はマイナスへと変わっていった。
そんな中、桃枝は出会ったのだ。人の目を見つめることの素晴らしさを、喜びを教えてくれる男に。
『なんだ、できるじゃないですか。見つめ合うと顔が赤くなるとか、そういう面白い反応を期待していましたのに』
何度思い返しても、山吹のあの笑顔が忘れられなくて。人生のターニングポイントは、確実にあの日だと。桃枝は強く、そう感じていた。
……さて。なぜ桃枝が、こんなにも古い記憶を引っ張り出しているのか。その理由は、意外と単純だ。
『──そう言えば桃枝課長って、Sっぽいですよねぇ』
昼休憩中に投げられた、この言葉。桃枝は山吹との楽しい昼食を終えても、ずっとこの言葉について考えていた。
Sっぽい、ということは。言葉の意味を紐解いていくと、桃枝の愛情が分かりづらいということ。つまり、自分の愛情は他者に伝わりづらいのか。……脳内会議の議題は、これで持ちきりだ。
「……はぁっ」
午後の仕事に打ち込みつつ、桃枝は思わずため息を吐く。
それにより周りにいた職員がビクリと肩を跳ねさせるも、桃枝は『今のため息は苛立ち所以ではない』と弁明できなかった。……そもそも『弁明をする』という発想が湧いていないどころか、職員が震え上がったことにすら気付いていないのだから。
仕事で使う、パソコンで組み立てる計算式ならば。組み立て方が分からなくても、式が間違っていても、ネットで訊ねれば解決はすぐだ。
だが、対人間だとそうはいかない。それが自分自身であるのなら、余計に。
確かに、愛想は良くない。人の目を見ることに多少は慣れてきたものの、やはり目が合えば怯えられている。愛想笑いのひとつでも浮かべられたらいいのだが、嘘が吐けない桃枝には楽しくもない状況で笑うことができないのだ。
などと、考えれば考えるほど欠点ばかり。それを家のせいにするつもりはないが、なんとももったいない青春時代を過ごしてしまったな、とは思う。
愛想がなく、威圧的で、冷たくて、どことなく攻撃的。もしも、世間一般でこういった人間を『サディスティックだ』と言うのなら。困ったことに、ぐうの音も出せない。
もしかすると山吹も、桃枝をサディスティックな男だと思っている可能性が。そこまで考え、桃枝はまたもやため息を吐いた。
「なんか、桃枝課長……メチャクチャ怒って、ないか?」
「あれは絶対に怒ってるよね。部長になにか言われたのかな……」
「もしかして、極秘プロジェクトを任せられたとか?」
黒い空気を纏い、まるで社運を背負っているかのような佇まいでパソコンを睨む桃枝に、部下たちの視線が集まっているとも知らずに。
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