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 素直な気持ち、とは。いったい、なんなのか。自分で投げておいてなんだが、なかなか要領を得ない要望だった気もする。  同じく山吹もそう思ったのか、ティッシュで目元を拭いながら悩み始めてしまった。桃枝に抱き締められたまま、静かに唸っている。  やがて、桃枝よりも先に答えを見つけたらしい。山吹は潤んだ瞳を、背後に座る桃枝に向けた。 「えっと、その。ボク、今日は課長と、その……抱き合って寝たい、です」  危ない。恋人の甘えが可愛すぎて、心停止するところだった。桃枝は表情を普段以上に強張らせながら、真剣にそう思う。  しかしそんな様子は欠片も見せず、桃枝はさも平静ですと言いたげな様子で返事を紡ぐ。 「あぁ、いいぞ。……けど、むしろいいのか? 前は抱き合うの、怖がってただろ」 「まだ少し、怖いです。でも……」  山吹は華奢な手で、桃枝が着ている服の裾をつまむ。そのまま、桃枝の瞳を見つめて……。 「──惚れた相手と、好き好んで離れたがる人なんていません」 「──っ!」  それは、以前。……桃枝が山吹に伝え、理解を示されなかった言葉だ。  まさかその言葉が、山吹の口から紡がれるなんて。桃枝はガチリと硬直した後、まるで油の切れたロボットを真似しているかのようなぎこちない動きで、自らの目頭をギュッと抑え始めた。 「課長? どうしてまた、目頭を押さえているんですか?」 「現状の尊さに、眩暈がな……」 「またですか?」 「うるせぇ『また』とか言うな」  そもそも、誰のせいだと。こう言えば山吹が泣くか喜ぶか分からず、桃枝は付け足す気が起きなかった。  目頭を押さえ、揉みながら。桃枝は重々しい声音で、言葉を続けた。 「夢にさえ、見られなかったからな。お前から、こうして『好き』って言われる光景は」  眩暈が落ち着き、冷静さを取り戻した後。桃枝は顔を上げて、山吹の唇をそっと撫でた。 「何度も、お前は俺の夢に出てきた。夢の中でデートだってしたし、世間話だって沢山した。……けど、ただの一度もお前は俺に『好き』とは言わなかった」 「そう、だったんですか?」 「あぁそうだ。今にして思えば、俺の頭じゃ【お前が俺に惚れる光景】なんて、想像もできなかったんだろうな」  かなり虚しい内容を口にしている自覚はあるが、事実なのだから仕方がない。  ついでだ、恥を多少上塗りしたっていいだろう。山吹の唇に触れながら、桃枝は己の口角を薄く上げた。 「もっと言ってくれ、緋花。俺は、お前からその言葉が欲しかったんだから」 「……っ」  なぜだろう。山吹が、真っ赤になっている。  唇を弄られたまま、山吹はプルプルと震え始めた。それから、ツンとした態度で返事をする。 「か、勝手に何度も、夢にボクを登場させるなんて……っ。出演料、取っちゃいますよ」 「あぁ、いいぞ。いくら払えば、お前は毎晩俺の夢に出てくれるんだ?」 「年間パスみたいな支払い方はやめてくださいよ、バカ」  本気の打診だったのに、なぜか叱られてしまった。だが、叱り方がなんとも甘い気がする。  やはり自分の恋人は可愛いなと思いながら、桃枝は山吹の唇をぷにぷにと指で弄り続けた。……数秒後、山吹にカプッと指を甘噛みされたが。

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