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 それから、数日後。  仕事終わりに山吹のアパートへやって来た桃枝は、山吹手製の豆乳鍋を眺めていた。 「クソッ。食べ終わるのが、もったいないな」 「食べ始めてもいないくせに、なにを言っているんですか」  付け足すように「そこまで喜んでくれているのなら、作り甲斐がありますけどね」と笑っている。山吹は相変わらず、優しい男だ。  結局あれから、キーホルダーについては触れていない。山吹も口にせず、名残惜しそうにしている様子もなかった。山吹の言葉を借りるのなら、本気で『卒業』したのだろう。  自分の欲望よりも、相手の欲望を優先した。まるで、自分の欲は初めから無かったかのように振る舞いながら……。  以前、黒法師が言っていた『優しい人』とは違うかもしれない。それでも、桃枝の目には山吹が一等優しい男に見えたのだ。  自分も、そうなれるだろうか。桃枝は山吹の指示通りに食器を運びながら、悶々と考える。……そして。  ──今こそ、優しさアピールのチャンスなのでは。不意に、そう気付いた。 「さぁ、召し上がっちゃってください」 「あ、あぁ。いただき、ます」  山吹はお玉を片手に、桃枝の皿を取る。いそいそと鍋の具をよそっているのだ。 「でも、そろそろ【鍋】という季節でもないですよね。もうすぐ六月になりますし、夏が近付きますねぇ……」  桃枝がなにを考えているのかなんて、気付いていない。山吹は今、桃枝に料理を褒められて喜んでいる真っ最中なのだから。  ただ尽くされている場合ではない。皿を受け取った桃枝は早速、脱サディスティックを目論んだ。 「皿とお玉を貸せ、山吹。お前の分は俺がついでやる」 「えっ。いいん、ですか? ……えっと、好きな人に料理をよそってもらえるのって、嬉しいですね。な、なんちゃって……」 「──うぐッ」  違う。素直な山吹にときめいている場合ではない。桃枝は胸を落ち着けつつ、山吹から食器を受け取る。  いそいそ、盛り盛り。桃枝はすぐに、山吹の皿を鍋の具でいっぱいにした。 「あっ、えっと……。す、スゴい量、ですね?」  この山には、さすがの山吹も驚きらしい。達成感でいっぱいの桃枝には、山吹の驚愕が届かないが。  しかし、これでは終わらない。ここで終わったら、ただ【お互いの皿に具材をよそい合っただけ】だ。  山吹がしてくれたことより、もう一歩先を。桃枝はすぐに、山吹の箸を奪った。 「ほら、山吹。野菜だぞ、しっかり食べろ」 「あ、はいっ。ちゃんと自分のペースで食べますから、わざわざ食べさせていただかなくても──」 「ふぅ、ふぅ……。……よし、冷ました。好き嫌いは良くないぞ。口を開けろ、食わせてやるから」 「いえホントに──むぐっ!」 「ほら、肉も冷ましたから食え。肉だぞ、肉」 「んんーっ!」  湯気が立つ具材をしっかりと冷ましながら、ポイポイと山吹の口へ放っていく。野菜、野菜、肉、野菜、肉、肉……。少量ずつではあるが、それでも山吹はすぐに口をいっぱいにし、苦しそうに呻いた。  やがて、山吹はギブアップを訴える。桃枝の膝をポンポンと叩いたのだ。 「けほっ、けほ。……課長、強引です……っ」 「わっ、悪い! 大丈夫か山吹!」 「痛いです痛いです! そんな力任せに口を拭おうとしないでください!」  口の端から鍋の汁なのか涎なのか分からないものを垂らす山吹の口を、ティッシュで拭いたかっただけ。しかし慌てた桃枝は、力加減を間違えてしまった。  おかしい。なにもかもが、失敗している。なぜだ? 桃枝は正座をして、本気で考え込む。  山吹に沢山おいしいものを食べさせて、口許を拭いてあげたかっただけなのに。これでは、ただの強引で意地の悪い男としてのレッテルを濃くするだけで──。 「──まったくもう。課長はホント、不器用ですけど優しいですよね」  自己嫌悪に陥っていた桃枝の鼓膜を、優しい声が揺すった。

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