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 あんなに恐ろしかった抱擁が、今ではこんなにも心安らぐなんて。自分の変化に、山吹はなんとも言えない気持ちを抱いた。 「前までのボクは、ズルい男でした。汚いところを隠して、キレイなボクだけを見せて好かれ続けようとしていました。だけどボクは、それが間違いだと気付いたんです」  桃枝に抱き着いたまま、山吹は胸板に顔を埋める。そうすると、心臓の音が聞こえた気がした。  少し、鼓動が速い気がする。山吹は瞳を閉じて、桃枝の体温に甘えた。 「課長に好かれ続けようと努力しているボクを見せても、課長はボクを嫌ったりしません。必死に課長を繋ぎ留めようとするボクを見せても、課長はボクを捨てたりしません。そう、信じてみたくなったんです。……信じて、しまったんです」  山吹が紡ぐ言葉に対して、桃枝がどんな顔をしているのか。桃枝の胸に顔を埋めている山吹には、推測しかできない。  しかし、声を聴けば答えなんて分かり切っている。 「そうか。お前の言葉を借りるなら、それは俺にとって【栄誉】だな」 「あははっ。さすが、ボクの課長です。ステキですね」  どこか誇らし気な様子で、笑っているのだろう。山吹はそう推測し、つられるように笑みをこぼす。 「だから、いっぱい努力をしたくなりました。カッコつけるんじゃなくて、カッコ良くなっていく【カッコ悪い過程】も見せるべきだと思ったんです。だってボクは、課長のそういう部分を見て惹かれていったんですから」 「そうか。言われてみると、確かにそうだな」  そこで不意に、桃枝の体が一瞬だけ微かに動いた気がした。 「最近のボクは、一生懸命すぎて滑稽に見えていたかもしれません。だけど、それを取り繕いたくないんです。だから、だから……」  桃枝がほんの少し身じろいだ理由に、山吹は気付いている。  なぜなら……。 「──素直に、甘えさせてください。ワガママな自分をいつか直しますから、直るまではワガママを許してください。カッコ良くてステキなカレシになりますから、未熟なボクも好きでいてください……」  山吹が、震えているからだ。桃枝に抱き着く山吹が、まるで縋りつくように腕の力を増させたからだった。  一度だけ、桃枝が小さな声で山吹を呼ぶ。その声に、山吹は返事ができなかった。  分かっているからだ。山吹が今、どれだけ身勝手なことを要求しているのかが。山吹自身で分かっているからこそ、返事ができないのだ。  自分の気持ちを素直に伝えることと、自分勝手な我が儘は全くの別物。山吹がしているのは、明らかに後者だ。  するり、と。回されていた桃枝の腕が、山吹の背から離れる。途端に山吹は、例えようもない不安に襲われた。 「や、っ。白菊さ──……えっ?」  咄嗟に、顔を上げて。そこで、山吹は──。 「──堪らないな。どんなお前も、堪らなく愛おしい」  うっすらと顔を赤らめて笑う桃枝を、視界に捉えた。  桃枝は山吹の目尻に、そっと指を添える。 「ありがとうな、緋花。こんなに色々、俺のことを想ってくれて」 「白菊、さん……?」 「それと、ごめんな。そんなに沢山、お前を思い詰めさせて」 「……っ」  息を呑んだ山吹が、つ、と。瞳から涙を溢れさせたから。  添えていた指が、山吹の目尻を優しく拭う。すぐに山吹は、桃枝の手の平に頬を擦り寄せた。 「やだ、白菊さん……っ。ボクが見せていない弱いところを、簡単に暴かないでください……っ」 「いいだろ、こっちから覗いたって。お前の全部、俺にくれよ。俺の全部はとっくに、お前に渡しちまったんだから」 「等価交換みたいな言い方、ズルいです……っ」  山吹はまたしても、身勝手に考えてしまう。  ──この人を好きになって、本当に良かった。この人を信じて、本当に良かった、と。

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