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12章【明日ありと思う心の仇桜】 1
山吹との同棲を始めて、数週間。
今日も今日とて気難しい顔をしながらパソコンに向かう桃枝は、昼休憩を知らせる機械音に鼓膜を震わされた。
周りが次々に食堂やコンビニへ向かう中、桃枝はそっと、常備している出勤用の鞄に手を伸ばす。
……山吹と同棲を始めてからというもの、桃枝は正直、驚いていた。
同棲とは、好きな相手とずっと一緒にいられるもの。だが当然、自由気ままな一人の生活と大きく変わってしまう点があることも承知していた。
幸せなだけではない。山吹自身も言っていた通り、今まで見えていなかったお互いの知らない面にも気付いてしまうという不和へのリスクだってある。
だが、しかし……。
「──幸せがすぎる……ッ」
事務所に一人きりとなって、すぐ。鞄の中から弁当箱が入った巾着を取り出して、桃枝は重々しく呟いた。
本当に、驚きなのだ。山吹の家庭的な面も家事スキルが高い点も知っていたが、それでも驚いた。
朝起きると、手作りの朝食が用意されていて。出勤する際には、手作りの弁当を持たせてもらえる。
こんな贅沢、本当にいいのだろうか。すっかり山吹に胃袋を握られた桃枝は、抑えきれない幸福感を呟きに込めて吐き出す。
無論、ただ【食事が用意される】という点に喜んでいるわけではない。重要なのは【誰がそれをしてくれているのか】という点だ。
愛しい男が、ただ桃枝のためだけに。頼まれなくても【自ら】してくれている。
こんな贅沢、どう処理していいのか。桃枝は弁当箱をデスクに置いた後、苦悩するように頭を抱えた。
「まずいな。本気で、どうにかなりそうだ」
無論、言うまでもなく桃枝も家事を率先して行うようにしている。しかし、あまり家事に積極性を見せすぎると山吹が悲しむのだ。
山吹は、桃枝から【幸せな毎日を貰っている対価】のように、桃枝へ尽くしたがる。挙句の果てには家事を自らのアイデンティティとまで言ってのけるのだ。
ゆえに、山吹から家事を奪うと狼狽される。山吹を悲しませたいわけではない桃枝からすると、家事に関してはいっそ譲歩している状態だ。
山吹は本気で、好きで家事をしている。桃枝としては申し訳なさが募る状況ではあるが、しかし、ここで『申し訳ない』と思っていては互いの関係が破綻するだろう。
だから桃枝は、素直に【感謝】をするようになった。『ごめん』と言うより『ありがとう』と言った方が山吹の笑顔が輝くと知ったからだ。
「しかし、それにしたってこれは幸福の極みすぎるな」
代わりに──と言うつもりはないが、桃枝は今まで以上に分かり易く山吹を愛するようになった。頭を撫で、スキンシップを要求されたら応じ、言葉にされなくても山吹のしてほしいことを察して実行するようになったのだ。
だが、結局それは桃枝のしたいこと。山吹をベタベタに甘やかし、分かり易く愛を示すのは桃枝の本望だ。
つまり、桃枝視点から見るとこの同棲生活は桃枝にとって嬉しいことしか発生していない。大きな罰が当たってもプラマイゼロかもしれないと思えるほど、桃枝は幸せの絶頂にいた。
……などと、幸せを噛み締めまくった後。桃枝は弁当箱の蓋を開けた。
「今日の弁当もうまそうだな」
甘くない玉子焼きに、タコの形を模したウィンナー。他にも、彩りや桃枝の健康に配慮されたオカズたち。桃枝は食物並びに山吹への感謝を込めて、両手を合わせる。
「いただきます」
これと同じ弁当を山吹も食べているのだと思うと、制作者が同じだから当然だというのに【山吹とお揃いの昼食】という付加価値まであるのだ。
やはり、同棲は凄い。相変わらず残念な語彙力なので上手に伝えられないが、とにかく桃枝は毎日が幸せなのだ。
「俺も、もっと山吹を幸せにしてやりたいものだな」
玉子焼きに箸を伸ばし、桃枝は呟く。
それから山吹お手製の玉子焼きを頬張り、桃枝好みの味に舌鼓を打ち、山吹への愛おしさを募らせる。……これが、ここ数週間の桃枝ルーティンとなっていた。
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