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休日出勤を無事に終え、山吹からのおつかいもこなした後。
「おかえりなさい、白菊さんっ!」
桃枝は帰宅と同時に飛び込んできた山吹の笑顔に、眩暈を起こしそうになっていた。
持っていた鞄と米をフローリングに置き、桃枝は山吹と対峙する。山吹は非常にご機嫌な様子で、それはそれは嬉しそうに桃枝へ近付く。
「ご飯にしますか? 用意できてますよ。お風呂も準備万端ですっ。どっちに──」
「──どっちも後でいい。今はお前だ」
「──わわっ!」
近付いてきたのが山吹なのだから、桃枝から触れたっていいだろう。桃枝は即座に、山吹を抱き締める。
山吹の頭部に顔を埋め、それから……。
「あのぉ、課長? もしかして、嗅いでますか?」
すんすんと、桃枝は山吹を嗅ぎ始めた。
……だが、桃枝はひとつだけ訂正をしたい。
「山吹。お前は【猫吸い】って知ってるか?」
「えっ? あ、はい、知ってます。ネコちゃんを吸って癒されるっていう、あれですよね?」
「だから俺は山吹を吸っている。以上」
「『だから』じゃないです。恥ずかしいのでそんなに嗅がないで──じゃなくて、吸わないでくださいぃ~っ」
嗅いでいるのではない、吸っているのだ。桃枝はすんすんと山吹を吸いながら、仕事の疲れを急激に癒していく。
猫吸いならぬ、恋人吸い。素晴らしい、これは素晴らしい療法だ。
「好きだ、緋花。今、強く惚れ直した」
「どうしてこのタイミングでっ? うぅ~っ、吸わないでください~っ」
「洗剤とは違う、少し甘い匂いがするな。今晩の料理か? 分からねぇが、悪くない」
「ヤッパリ嗅いでいるじゃないですかっ!」
ついに、山吹がジタバタと暴れ始めてしまった。羞恥心が限界突破したのだろう。渋々、桃枝は山吹を解放した。
するとそのタイミングで、パチッと目が合う。視線が絡むと同時に山吹は、ハッとした様子で桃枝を見つめ、すぐに瞳を閉じた。
……キスを、待っている。なぜかは分からないが、どうやら山吹は『桃枝からキスをされる』と思ったらしい。
正直、そんなつもりはなかったのだが……ここで『なんで目を閉じた?』などと言ってみろ。山吹は自分の早とちりにショックを受け、最悪の場合泣いてしまうかもしれない。
「緋花。今日も好きだぞ」
なので、桃枝は全力で『俺は今、山吹にキスがしたい』という感情に舵を切った。それはもう、全力で。キスをしたくないわけではなく、むしろしても良いのならしない理由がないからだ。
山吹の腰に腕を回し、抱き寄せる。桃枝と密着した山吹は瞳を閉じたまま、頬を赤らめていた。
「んっ。……白菊さんとのキス、きもちぃ、です……。口の中、溶けちゃいそう、っ」
「そ、そうか。……そうか」
「ゃ、んっ。手付きが、えっちぃです」
「っ! わっ、悪いっ!」
山吹の指摘は、桃枝にとって完全に無意識の行動だ。桃枝は弾かれたように、山吹から手を放す。
「あー、っと。なんだったか。飯ができているとか、なんとかだったな。玄関先でがっついて悪かった。急いで着替えてくる」
「えっ。あ、そんな、別に……」
ただでさえ体力の限界が目の前まで迫っている状態なのに、自分から山吹に手を出してどうする。本末転倒とまでは言わないが、なんとも桃枝らしくない。
桃枝は置いていた鞄と米を抱え、そこそこの早足で帰宅の支度を始めた。
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