426 / 465

13 : 13

 ユラリ、と。またしても山吹の前に、影が現れる。  それによって、山吹はすぐに気付いた。自分はまた、悪い夢を見ているのだと。 『酷い奴だよね、オマエはさ』  顔が見えないはずの影なのに、山吹は嘲笑を感じてしまう。  揺らめく影は、山吹の前に立ちはだかる。そのまま、山吹を責め始めるのだ。 『あんなに善良で優しい課長を信じられないなんて、酷い奴だよ』  彼を信じられないのではない。ただ【自分が】信じられないのだ。  山吹は影に対し、反論する。  それでも自分は、桃枝との未来を信じているのだ。桃枝が自分を捨てたりしないと、信じている。  山吹に反論された影は、やはり笑っているように見えた。小馬鹿にするような笑みを浮かべて、山吹を見つめている気がする。 『初デートで散々、課長を試したくせに?』  それはもう、謝った。謝って、赦してもらったではないか。 『あれだけ、課長の気持ちを否定したがっていたのに?』  それももう、謝った。これからは信じると約束したのだ。 『優しくされる度に、父さんのことを思い出して苦しいくせに?』  それは……。ついに、山吹が言葉を詰まらせる。  そこまでされてようやく、山吹は目の前に立ちはだかる【影】の正体に確信を持てた。  これは、この影は──。気付くと同時に、真っ黒だった影がその姿を現す。 『言い返せるわけないよ。だって、ボクが言っているのはオマエの【不安】だもん。オマエの【本心】だもん』  ──山吹自身だ。  この影は、己を信じ切れない山吹の本性。もう一人の山吹だ。  的確に山吹の不安を煽るのも、山吹から余裕を奪うのも……山吹自身が相手なのだと分かれば、納得しかできない。  すると、もう一人の山吹がニヤリと口角を上げた。 『ねぇ、分かってるんでしょ? さすがに今のオマエは、都合が良すぎだって。ズルイ奴だって』  それは……っ。またしても、山吹は言葉を詰まらせてしまう。  言葉が詰まろうと、顔色を悪くさせようと。もう一人の山吹はただただ愉快気に笑うだけで、その口を留めなかった。 『浅ましすぎるんだよ、今のオマエ。自分勝手で、身勝手で、ワガママで。ボクはそんなオマエが大嫌いだ』  やめて、と。山吹はついに、蹲った。  そんな山吹を見て、もう一人の山吹が笑った。 『──もうすぐかもね。課長に愛想を尽かされるのは』  まるで、トドメを刺したかのように。山吹が息を呑む姿を見届けた後、もう一人の山吹は満足そうに笑いながら消えていった。  もう一人の山吹を追うつもりはなく、消えてくれたことに安堵すら抱いている。山吹は蹲ったまま、声にならない叫びを上げた。  ……その時。 「──……な。緋花。……おい、緋花!」  遠いところから、声が聞こえた。そんな気がして、山吹は顔を上げる。それが、悪夢から現実の世界に戻るきっかけになった。 「……あ、っ」 「大丈夫か、緋花」  桃枝だ。桃枝が、山吹を起こしてくれた。  いつからかは分からないが、山吹は体を揺する桃枝の腕を掴んでいたらしい。  その感触に、その体温に。 「しら、ぎく……さ、ん」  山吹は、涙をボロボロと溢れさせてしまった。

ともだちにシェアしよう!