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ユラリ、と。またしても山吹の前に、影が現れる。
それによって、山吹はすぐに気付いた。自分はまた、悪い夢を見ているのだと。
『酷い奴だよね、オマエはさ』
顔が見えないはずの影なのに、山吹は嘲笑を感じてしまう。
揺らめく影は、山吹の前に立ちはだかる。そのまま、山吹を責め始めるのだ。
『あんなに善良で優しい課長を信じられないなんて、酷い奴だよ』
彼を信じられないのではない。ただ【自分が】信じられないのだ。
山吹は影に対し、反論する。
それでも自分は、桃枝との未来を信じているのだ。桃枝が自分を捨てたりしないと、信じている。
山吹に反論された影は、やはり笑っているように見えた。小馬鹿にするような笑みを浮かべて、山吹を見つめている気がする。
『初デートで散々、課長を試したくせに?』
それはもう、謝った。謝って、赦してもらったではないか。
『あれだけ、課長の気持ちを否定したがっていたのに?』
それももう、謝った。これからは信じると約束したのだ。
『優しくされる度に、父さんのことを思い出して苦しいくせに?』
それは……。ついに、山吹が言葉を詰まらせる。
そこまでされてようやく、山吹は目の前に立ちはだかる【影】の正体に確信を持てた。
これは、この影は──。気付くと同時に、真っ黒だった影がその姿を現す。
『言い返せるわけないよ。だって、ボクが言っているのはオマエの【不安】だもん。オマエの【本心】だもん』
──山吹自身だ。
この影は、己を信じ切れない山吹の本性。もう一人の山吹だ。
的確に山吹の不安を煽るのも、山吹から余裕を奪うのも……山吹自身が相手なのだと分かれば、納得しかできない。
すると、もう一人の山吹がニヤリと口角を上げた。
『ねぇ、分かってるんでしょ? さすがに今のオマエは、都合が良すぎだって。ズルイ奴だって』
それは……っ。またしても、山吹は言葉を詰まらせてしまう。
言葉が詰まろうと、顔色を悪くさせようと。もう一人の山吹はただただ愉快気に笑うだけで、その口を留めなかった。
『浅ましすぎるんだよ、今のオマエ。自分勝手で、身勝手で、ワガママで。ボクはそんなオマエが大嫌いだ』
やめて、と。山吹はついに、蹲った。
そんな山吹を見て、もう一人の山吹が笑った。
『──もうすぐかもね。課長に愛想を尽かされるのは』
まるで、トドメを刺したかのように。山吹が息を呑む姿を見届けた後、もう一人の山吹は満足そうに笑いながら消えていった。
もう一人の山吹を追うつもりはなく、消えてくれたことに安堵すら抱いている。山吹は蹲ったまま、声にならない叫びを上げた。
……その時。
「──……な。緋花。……おい、緋花!」
遠いところから、声が聞こえた。そんな気がして、山吹は顔を上げる。それが、悪夢から現実の世界に戻るきっかけになった。
「……あ、っ」
「大丈夫か、緋花」
桃枝だ。桃枝が、山吹を起こしてくれた。
いつからかは分からないが、山吹は体を揺する桃枝の腕を掴んでいたらしい。
その感触に、その体温に。
「しら、ぎく……さ、ん」
山吹は、涙をボロボロと溢れさせてしまった。
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