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番外編①【待てば海路の日和あり】 1
※関係性は1章の途中頃ですが、3章のネタバレを含みます。
子供の頃。山吹は家族と、夏祭りに行ってみたかった。
『母さん。一緒に、夏祭りに行きませんか?』
ある日の夏。山吹は勇気を出して、家事に勤しむ母親を誘った。手には学校で貰った夏祭りの案内チラシを持ちながら。
家事をしていた山吹の母は、作業を止めて幼い我が子を見下ろした。チラシを見て、勇気を振り絞った山吹を見て……母は、笑って。
『──ごめんなさいね、緋花。母さん、おうちで父さんのお世話をしなくちゃいけませんから』
山吹の勇気を、そっと放ったのだ。
いつだって、山吹の母親は【母親】である以前に【一人の女】だった。子供よりも最愛の旦那をなによりも優先し、反対の天秤になにを乗せられたって【旦那】が乗った方が傾く。いつだって山吹の母は、そういう女だった。
チラシを下ろし、山吹は悩んでしまった。なぜなら当時の山吹は、父親のことが苦手だったのだ。この時の山吹はまだ、愛した妻に暴力を振るう父のことを疎んでいたから。
『……じゃあ、父さんと三人はダメでしょうか?』
それでも父親を誘ったのは、外に出た方が母親の安全が保障されると知っていたからだ。
他人の目があると、暴力を振るわない。父親の異常性を知り、母親を守りたくて。……なによりも、夏祭りに家族で行きたかったから。幼い山吹は色々な考えを内包しながら、母親を見上げた。
けれど、答えは変わらない。
『ごめんなさい。父さんは、人混みが苦手ですから』
そう言い、母親は台所から離れる。そしてすぐに、自身が持つ財布を取り出したのだ。
『お金をあげますから、一人で行ってきていいですよ。お夕食代わりに露店で、好きなものを買ってきていいですから』
『えっ。……でもボクは、家族三人で──』
『射的で遊んできてもいいですし、今もあるかは分かりませんが型抜きも楽しいですよ。気に入ったお面があったら買ってきてもいいですし、ヨーヨー風船も釣って構いませんから。……ねっ?』
財布から抜かれた、数枚の千円札。母親は取り出した現金をすぐに、山吹が使っている可愛らしい財布に差し込んだ。
『ですが、帰りがあまり遅くなってはいけませんよ。緋花になにかあっては、母さんも父さんも心配してしまいますから』
だったら、一緒についてきてくれたら。……そう、言いたかったのに。
『──緋花はいい子ですから、母さんと約束できますね?』
その言葉はまるで、呪いのようで。
『あ、っ。……は、い。ありがとうございます、母さん。気を付けて、行ってきます』
渡された財布を受け取り、山吹は【母親が望むいい子】として振る舞った。
初めて行った夏祭りの会場は、想像していたよりも人が多くて、キラキラと輝いていて。『確かに、父さんは苦手そうだ』と思いながら、山吹は露店を巡った。
母親に言われた通り、射的で遊んだ。型抜きも、思いの外綺麗に成功できた。お面も眺めて、水に浮かぶヨーヨー風船も見て……。
……なにひとつ、楽しくなかった。色々な匂いが混ざった露店の前を通過しても、喉の奥が詰まって食欲が湧かなくなるほどに……。
「……ん、っ」
乾いた声を漏らしながら、現在。大人になった山吹は一人きりの部屋で、そっと瞼を開いた。
「さい、あく。……イヤな夢、見ちゃったな」
季節は、夏。山吹が管理課へ異動して、三ヶ月が経過した頃。
不愉快な目覚めは、うだるような暑さのせいにして。山吹は独り言ちながら、濡れた頬をそっと拭った。
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