456 / 465
番外編③【釈迦に説法】 1
※二人の関係性は最終章の後です。
桃枝白菊は、恋人──山吹緋花のことが大好きだ。言うまでもなく、心から愛している。
特に、甘えてくる山吹緋花が大好きだ。上目遣いをされれば胸が高鳴り、小首を傾げられると呻き声が漏れ、体に触れられようものなら体が硬直する。
目に見えて分かり易く、桃枝という男は山吹という男に弱いのだ。
……さて。なぜ、そんな話が始まったのか。理由は、桃枝が置かれている今の状況にある。
「──仕事に行きたくないです」
べそをかき、弱音のような本心を吐露し、情けない顔をしている男。……そう。言うまでもなく、桃枝にとって最愛の男──山吹だ。
山吹は今、べったりと桃枝にくっついていた。椅子に座り、仏頂面でマグカップを持つ桃枝に。
山吹に抱き着かれた桃枝は、音を立ててコーヒーをずずっと嗜む。
「そうか。お前がそんなことを言うなんて珍しいな」
「仕事に行きたくないです」
「そうだな、水曜日は気が滅入るよな。気持ちは分かるぞ」
「仕事に行きたくないです」
「確かに社会人なら誰しも思うことだな。分かるぞ。だがな、山吹──」
「仕事に行きたくないです」
「──お前は壊れたラジオか」
ベソ、ぐす。仕事が理由でこんなにもダメダメになっている山吹は、正直レアだ。写真──いや、動画に収めたい。桃枝は本心から、そう思い始める。
しかし、違った。明確に言うと、山吹がべそをかいているのは【仕事】が理由ではないのだ。
「白菊さんも仕事に行きましょうよ。一緒にお家から出ましょう?」
「あぁ、一緒に出るぞ。お前を送ってやるからな」
「イヤです。事務所の中までついてきてくれないとイヤです」
「……あのな、山吹」
コト、と。桃枝は持っていたマグカップを食卓テーブルの上に置いた。
それから山吹を振り返り、桃枝はその仏頂面を向ける。
「──俺は今日、有給で休みなんだぞ」
「──だから仕事に行きたくないんですよぉ~っ!」
現実を突きつけると、山吹はヤダヤダと駄々をこねるように桃枝へ抱き着く。
山吹は桃枝を見つめ、ウルウルと揺れる大きな瞳を向けた。
「離れたくないです。やだぁ……っ」
「んッ。そ、そう、だな」
桃枝、歓喜。山吹が今日も可愛い。感謝を伝えたいほどに。
こっそりと桃枝が悶えている間に、山吹はピコンとなにやら閃いたらしい。
「そうです! ボクも仕事を休めばいいんです! そうすればボクと白菊さんはずっと一緒ですよっ! 名案ですねっ?」
「駄目だ」
「うぅ~っ、ケチ~!」
「そんなに可愛く甘えてきても、駄目なものは駄目だ」
恋人としては嬉しいことこの上ない閃きだが、上司としてはなんともコメントし難いのだ。有給休暇は職員の権利と言えど、急すぎる。
公私混同はしたくない気持ちと、恋人を存分に甘やかしたい気持ち。こう見えて桃枝は、猛烈な葛藤をしている。
悪くはないのだが、悪い。桃枝は山吹の頭を撫で、得意ではない笑みを浮かべた。
「俺のデスク周りはお前に任せたぞ」
「ボクに頼ってくれている、ということですか?」
「そうだ。頼めるな、緋花」
「……はい」
べそっとしているが、なんとか出勤する気になってくれたらしい。上々だ。
山吹の頭を撫でて「偉いな」と褒めれば、山吹の気持ちはさらに上がる。山吹は眉を八の字にしながらも、どことなく嬉しそうに微笑んでくれた。
ともだちにシェアしよう!