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名も明かせぬ帰郷

生国に帰れど帰りたい家はどこにもない  話し合いを数回重ねた結果、10日程私の父こと蒼宮零月の屋敷周辺などで手分けして情報収集を行うということになった。綾人殿が鬼祓いの方に聞き込みに行っている間に私が10年幽閉された屋敷周辺も調べた方が良いだろう。ただ気掛かりが翠雨のことなのだが……。私はようやく泣き止んだ腕の中の翠雨を見る。私がまた離れるのを悟ったのか分からないが、翠雨は私の姿が見えないだけで泣くようになった。だけども連れていく訳には行かないので結局置いていくことになる。それに罪悪感を抱くのは翠雨に情が移ってしまったからだろうか。 「翠雨殿、すみません」  眠った翠雨をそっと布団に寝かせると、龍藍は文机に頭を預けた。こんな幼い子を遺して亡くなった叔母上と叔父上。どうして叔父上は亡くなったのだろうか。それに……何故、青龍の所有権を翠雨に引き継がせなかったのだろう。一度も叔父上の口から言及は無く、聞いても真っ暗な部屋に閉じ込められた。もしかして、式神側から主従の契約を破棄しようとしたのか? 疑問は尽きない上にここで考えても分からないまま。 「龍藍、あんまり考えすぎても疲れるだけだ」  背後から呼び掛けられ振り返ると銀雪が湯飲みを二つ手に持っている。ほら飲めと差し出されて飲めば、思わずふうと息が出た。 「でも心配だから考えてしまうんだ。これ以上知り合いが傷つくのは見たくない」  目を閉じれば、悲しげな顔をする母上と炎を背にして強がって笑う父上の顔が浮かぶ。これ以上、助けられなかったと後悔したくない。 「それに……正体がばれる訳にはいかない。ばれたら全てが無駄になる」  半龍の私は言わば化け物だ。正体が露見すれば、危険対象として殺されてもおかしくないだろう。自嘲気味に笑う龍藍を銀雪は抱き締めた。 「……出来る限り俺は共に在るし、お前を守る。しかし、お前が自身を責めたら守りようがない。己の心を殺そうとしないでくれ」  己の心を殺す? 決してそんなつもりなど無いのだがと心の内で呟く。そしてただ銀雪の言葉に頷いて見せた。  数日後、龍藍と銀雪と綾人は京の都を離れ玻璃野に向かうこととなった。出立しようした時、泣きじゃくる翠雨を宥めるのに苦戦して少し出立する時間が遅くなってしまった。  あの時と違って表の道を行くため、日光が眩しくてたまらない。龍藍はまだまだ夜型のせいで立ち止まりそうな貧弱な己の身を叱咤して歩く。そんな龍藍に当然のように歩く早さを合わせる銀雪と綾人。銀雪が合わせてくれるのは分かるがどうして綾人殿が。下を向いていた龍藍は顔を上げた。 「綾人殿、私に合わせると遅くなりましょう。ちゃんと追いつきますので早く先に行ってくださっても良いのですよ」  すると綾人殿は何を言っているのかと首を傾げた。 「いや、別に遅いと思ってはいません。早く行けない訳でもないですが、下手に離れればはぐれてしまうでしょう。それに私は陰陽寮に勤める身。正直に行ってしまえば、陰陽寮で仕事をしなくて良いこの旅をゆっくり楽しみたいのです」  綾人は視線を空に目を遣った。空は晴れ渡り綺麗な青が見える。 「貴方の瞳程ではないが、良い空ですね」 「本当に澄み渡る空です……え? 今何と言いました?」 「な、何でもないです。龍藍殿行きましょう」  誤魔化して足を進める綾人と、今言われた言葉の意味を理解しようと考え込む龍藍。二人を見つめて銀雪は複雑な顔をした。 「こいつ……まさか龍藍に惚れたのか」  そんなことはあるまい。いや……あるのかも。もしそうだとしても、龍藍の3人目の親として龍藍をやるわけにはいかない。銀雪は小さく舌打ちをして綾人を睨みつけた。  その夜は旅籠に泊まることとなった。あの妖狐は俺と龍藍殿とで部屋を分けたいと言ったが、旅籠の女将は申し訳なさそうに首を横に振った。 「お客さんすいませーん。今日は一部屋しか空いていないので、相部屋となります」  これに残念そうな顔をしたのは妖狐。龍藍殿は少しは話をしてくれるようになったが、妖狐の俺への嫌悪が段々あからさまになってきたのは気のせいだろうか。 「では衝立を用意してくれないか」 「それは構いませんよ。ではお部屋に案内いたしましょう」  部屋に案内してもらい、荷を置くと俺は寛ぐ。久しぶりに歩いたので足が痛い。俺が足を揉んでいると、龍藍殿が俺に視線を向けた。 「綾人殿、先に風呂に入られて来ては如何でしょう。私達は後で良いですので」 「じゃあお言葉に甘えて……」  綾人はぎこちなく笑って、そそくさと部屋を出ていく。風呂に入って息を吐くと、口元を手で覆った。 「……何であんなこと言ったんだろう」  思い出すは昼間のあの失言。龍藍殿は気づいていなかったようだが、あの妖狐が不機嫌になったのはあれからであろうか。 『貴方の瞳程ではないが、良い空ですね』  あれは完全に口説き文句ではないか。恥ずかしさで頬が熱い。きっと兄が聞いていたら、肩を震わせて笑っていたことであろう。 「でも龍藍殿の瞳がすごく綺麗なのも事実だし。いや俺は何を言っているんだ!?」  好きとかどうか分からない。でもあの青い瞳に惹かれるのは真実で……。この訳の分からない感情はどう現せば良いものか。綾人はびしゃっと頭からお湯を被った。  私の後に龍藍殿とあの妖狐が風呂に入っている間、俺は部屋で今日のことを日記に整理していた。それにしてもあの妖狐、龍藍殿と一緒に風呂に入るのか。一緒に入る程心を許す仲なのだろうか。別に羨ましいとかそんなことは思っていないが、一緒に過ごして観察してきて、龍藍殿が心を許すのはあの妖狐だということがはっきりと分かる。あの妖狐とは何年の付き合いなのだろうか。そんなことを考えている内に、龍藍殿と妖狐が風呂から上がった。 「何だ。陰陽師殿はまだ食ってなかったのか」 「たまには一緒に食べても良いだろうか。……その、一人で食べるのは私は苦手なんです。これから向こうに戻っても一緒に食べませんか」  今まで顔を合わせるのが気まずくて部屋で食べていたが、やっぱり誰かと一緒に食事をしたいもの。恐る恐る龍藍殿を見ると、龍藍殿は驚いた顔をしていた。 「良いのですか? 私は嫡男などではなく、養子の者ですよ?」 「そんなことは関係ないです。それに私は貴方を監視する任を兄から命じられたとは言え、居候の身です。私は自分の意思で貴方と食事を共にしたいのです」  龍藍殿はどう答えるのだろうか。戦々恐々と龍藍殿の答えを待っていると、龍藍殿はふわりと微笑んだ。 「構いませんよ。喜んで共にいたしましょう」 「龍藍がそう言うのならば……まあ良いだろう」  龍藍殿の柔らかい声に、胸が暖かくなる。それとあの妖狐が承諾してくれたことにも安堵した。綾人は目を輝かせて頷くと、3人で食事をすることになった。  食事中の会話は今日の旅の感想やこれからの計画といった真面目なこと。それでも家族以外と食事をして、これ程楽しいと思えたのは初めてであった。  食事を共にはしたが、寝る時は衝立を隔ててであった。兄からすれば相手は監視対象で同性なのだから何を衝立などで隠しているのだと言われそうだが、龍藍殿の寝顔を見るのはまだ気が引ける。それにあの妖狐が黙ってはいないだろう。 「龍藍殿……もう眠っておられますか」 「もうすぐ眠るつもりです」  衝立の向こうでは、龍藍殿はどんな顔をしているのだろうか。声はあの時よりも少しだけ、優しくなっている。 「陰陽師殿、明日も歩くんだからさっさと休んではいかがか。あと此方を覗くような真似はなさいますな」 「分かっているさ」  けれども誰かとこうやって、部屋を同じにして寝るのは久しぶりだ。緊張して眠れない。目だけを動かせば月の光が障子越しに部屋に差し込んでいた。 「ん……?」  一瞬、何か冷たい何かを感じたような。これはまさか……神気……? 綾人が起き上がろうとする前に完全に意識が呑まれ、眠りに入った。 「やあ久しぶり、龍藍くんと銀雪くん」  眠りに入る直前、知らない声が聞こえた。  完全に綾人が眠ったのを確認すると、降臨した龍神がゆっくりと部屋の真ん中に腰を下ろした。そんな龍神に龍藍は片膝をついて頭を垂れる。 「久しぶりです我が主よ」 「遅いぞ龍神。巫女と喧嘩でもしたか」 「喧嘩なんてしてないってば。それよりも息災で何よりだよ君たち」  久しぶりに会う主こと龍神は、自分の眷族を交互に見るとゆるりと笑った。そして、うんうんと頷くと、子供でも相手にするかのように私の頭を撫でる。 「龍藍君、直で見ると少し顔つきが変わったね。成長したのかな」 「さあどうでしょうね。貴方の眷族となってからは肉体は時間の流れに逆らうようになってしまいましたし……」 「いいや、違うよ。肉体ではなくて魂の話さ」 目を細めて穏やかな顔をする龍神。どうしてだか父の面影を漂わせた龍神に、龍藍は目を閉じて身を預ける。しばらく撫で回して満足したのか、龍神はようやく頭から手を離した。 「で、此方は晴明の子孫かい? まあなんとまあ霊気が似ていること」  苦虫を噛み潰したような顔で龍神が呟く。その口ぶりからすると龍神は晴明公とお知り合いなのだろうか。陰陽師嫌いである天津神が、陰陽師から神となったものと知り合いというのは意外だ。 「龍神様はあの晴明とお知り合いなのです?」 「あやつが人であった頃にね。昔は腹立たしい陰陽師の小僧と思っていた。狐にでもなるかと思っていたけど、まさか神と崇められる存在になるとは。昔は嫌いだったけど今はたまーに酒も飲むよ」  龍神と生前の晴明公に一体何があったのか。それを聞きたいのは山々だがそろそろ本題にはいらねば。私が口を開く前に銀雪が前に出た。 「で、龍神。その陰陽師の式神である青龍の居場所に覚えはないか」  すると、さっきまでの穏やかな表情は冬の風の如く冷たくなった。 「あの薄氷の式神でもあるだろ。僕は零月のことがあるから薄氷の式神のことなんか知らないし、探したくない……というのは我儘かな」  龍神が父上のことを大切に思ってくれているのは、承知している。たとえ黄泉の穢れに侵されようが、人殺しの罪で危うく地獄に墜ちるところであった父上の魂を救いだしてくれたのだから。 「我儘に決まっているだろうが。あいつが氷雨殺しに加担していたか、拒んだか分かんねえんだぞ。で行方は本当に知らないのか」  すると龍神は困った顔になった。すぐには答えたくないのか、何か悩むような仕草をしている。銀雪は私に視線を向けると念話で話しかけてきた。 『こいつ実は何かを知っているんじゃないか?』 『うん。そうみたいだよね。何か話せない理由でもあるのかな』  唸りながら考え込む龍神を眺めていると、ようやく龍神が組んでいた腕を解いた。 「玻璃野と僕の山の数ヵ所に怪しい場所がある。確信は無いけれど、探してみるといい」  そう言って、文机の紙を勝手に掴んで描いていく龍神。細やかで繊細な筆使いで地図が描かれていく。そして龍神は自分の神を一本引き抜くと龍藍の小指に巻き付けた。髪は瞬く間に青水晶の指輪と変じる。 「地図の印の箇所に近づくとそれが光るからね。あと身の危険が訪れたらそれを投げなさい。きっと君の助けとなる」 「ありがとうございます」  両親をうしなった私に、こうも親身になってくださる龍神には感謝してもしきれない。深く頭を下げると龍神は笑って、別に良いよと言った。 「君は僕にとって大切だからね。……それよりも龍藍君、かつての許嫁を大切に想うことは良いけれど、悲しみを引き摺らないで。死者に引き込まれてしまうよ。相手の性別なんて問わないから新たに君を愛してくれる人を見つけなさい」 「……はい」  僕にとって想う相手は楓だけでいい。たとえ死に引き摺られたとしても。そんなことを言うと龍神や銀雪を悲しませてしまいそうで龍藍は本音を飲み込んだ。  草木も眠る丑三つ時に綾人は目を覚ました。別に催したなどというわけではない。それよりも先程は妙な気配を感じながら眠りに落ちたのだが。 「……ぇ……」  衝立の向こうから声が聞こえる。小さい声だが、胸を締め付けられるような。何事かと思わず衝立の向こうを覗くと、龍藍殿と獣姿で龍藍殿の枕元で丸まって眠る式神の姿があった。 「ちちうえ……ははうえ……」  昼間の流れる水の如き清らかな口調ではなく、幼く迷子の子供が親を呼ぶ声。閉じられた目蓋から涙が溢れる。その光景を目の当たりにした途端、あの夜の寂しい笛の音を奏でる天女ならぬ天人を思い出した。綾人は思わず龍藍の右目の涙を指の背で拭う。そして左目の涙を拭おうとした時、鋭い視線が自らを貫いていることに気がついた。 「陰陽師、今すぐその子から離れろ。貴様に触れることを許した覚えはない」 「涙を拭っただけだ。どうしてお前はそこまで過保護になる」  此方に悪意がないことなど見れば分かるだろうが。だがこのまま左目の涙を拭ってしまえば、俺の指が食い千切られる予感がして渋々離れた。 「この子は10年も山に閉じ込められ、まだ世間知らずだ。その証拠に貴様のような奴に心を開こうとしている。自分を『化物』と罵った相手にだ」 「それは謝っただろうが! それに今でも反省しているし、今後言うつもりもない」  すると妖狐は人型に変じて庇うように龍藍殿の前に出た。 「それはどうだが。少なくとも俺は信用していない。お前達が俺達を監視するように、俺もお前が龍藍にとって無害だと判断するまでは龍藍に触らせぬ」  無害だと言いたい。だが、もし龍藍殿が陰陽寮や朝廷を脅かす存在だとしたら? 綾人は何も言えぬまま唇を噛み締める。龍藍殿、どうか本当の正体を打ち明けてくれぬだろうか。そんな綾人の胸の内に気づかぬまま龍藍は寝息を立てていた。  綾人を追い払った銀雪は龍藍の方を振り返った。綾人と違い銀雪の目には本来の龍藍が見えた。危ないところだったと龍藍の左目、否。包帯で覆われた顔に触れる。もし触れられていたならば、龍藍のこの姿が露見していたことだろう。そうなれば……また化け物と綾人は言うかもしれない。それだけは避けたい。 「夕霧……すまない」  銀雪は苦しそうに奥歯を噛んだ。龍藍の銀の髪は、幼子であった瀕死の彼を助けるために自分が決死の覚悟で注ぎ込んだ妖力の証である。今は完全に同調してしまっているので、銀となった髪は戻ることはないだろう。それでも、戻せるならば戻したい。戻れるならば、氷雨と夕霧と翡翠と穏やかなあの日々を……。そんな叶わぬ願いを考えてしまい、銀雪は首を横に振って悲しげに笑った。  次の日、昨夜のことを何事も無かったように銀雪や綾人が振る舞っていたが、龍藍は妙な雰囲気を感じ取り気まずくなっていた。一体何があったのだろうか。けれどもそんな問いを出来ずにただ足を進める。 数日経ってようやく国坂の宿に泊まることになった。 「玻璃野に入れば鬼祓いの者共が結界を管理している。なるべくなら彼らの機嫌を損ねないように。彼らは鷹智家に仕えてはいれど陰陽師を守る刀もある。あと叔父……じゃない紅原殿は今奥方を喪って恐ろしくなっている。怒らせるのはまずい」 「分かりました」  紅原殿の恐ろしい姿など想像できない。いや、親友の子である私にはそんな姿を見せなかったのだろうか。とりあえず目立たないようにして、紅原殿に接触するのを避けた方が良いだろう。……それにまだ会うのが怖い。龍藍の包帯の下がずきりと痛んだ。  旅の最終日、関所を通る時には晴彦殿の書状を差し出し、綾人に説明してもらって関所を通ることが出来た。そして関所に駐在していた鬼祓いと軽く話をすることになった。 「お待ちしておりました、土御門殿と蒼宮殿。せっかくですので里の方に案内いたしましょうか?」  すると綾人は首を横に振って苦笑する。 「お気遣いは有り難いですが、泊まる宿を確保したいですので後程参らせて頂きます」  そうですかと鬼祓いの青年は残念そうな顔をした。貴族は鬼祓いより身分が高いので敬語などいらないだろうに。習慣付いたものなのだろうか、心から彼らに敬意を払っているのだろうか。 「では、宿に案内の者を遣わせましょう。土御門殿と蒼宮殿、長旅の疲れを取られてください」  鬼祓いの青年からお勧めの宿を教えてもらい、3人は玻璃野の城下町に向かった。関所からは玻璃野の城下町はさほど離れていない。半刻歩いて行くと玻璃野の城下町が見えた。 「っ……」  故郷を目の当たりにして、龍藍は息を飲み込んだ。故郷に入るのが怖い。生家の……父が亡くなった場所を見るのが怖い。龍藍が俯いて動けないでいると、背を温かい手が擦った。 『龍藍、大丈夫。俺がお前の傍にいる』  その言葉の暖かさに押されて、龍藍は前を向く。傍を歩いていた綾人は無意識に異変に気づいたのか、心配そうに顔を覗き込んだ。 「龍藍殿? 顔色が良くないようだが大丈夫か? 休憩したいのならば休んでもいいんだぞ」 「いいえ、大丈夫です。行きましょう」  今までよりも少し早歩きになった龍藍を心配しつつも、綾人はただ傍を歩くことにした。  宿に着くと今までの疲れが出たのか、龍藍は気だるくなって文机に突っ伏してしまった。 「銀雪疲れた」 「お疲れ様。飯の時間まで寝ていていいぞ」  そういや目蓋が重いような。綾人とは別の部屋だし、だらしなく寝ても良いだろうか。龍藍は畳の上に横になると、あっという間に寝息を立てて無防備に寝始めた。 「……まあ疲れるだろうな」  銀雪は部屋の外に目を向けた。10年前と変わったものは多くあろう。龍藍は何も言いはしなかったが、自分だけ故郷に置いて行かれた気分になってもおかしくはない。宿に入る頃には顔が真っ青になっており、宿屋の女中や綾人がとても心配していた。今は顔色が落ち着いたからいいが、かつて自分の家があった場所を見るのは酷だ。銀雪が龍藍に自分の羽織を掛けていると、襖が開く音がした。 「龍藍殿、大丈夫……って寝ているのか」  すうすうと寝息を立てる龍藍に、綾人はほっと安堵の溜め息をつく。それほど心配であったのか。以前より龍藍に情が随分移ったものだと銀雪は複雑な心情を隠せないでいた。 「今から紅原殿の所に挨拶に行く。何か言伝てでもあるか」 「直接挨拶出来ずにすまないというくらいか。京を出立する前に龍藍が書いていた書状があるので渡しておいてほしい」  銀雪は龍藍の荷物から一通の書状を取り出すと、ぽいと綾人に投げる。綾人は余裕の表情でそれを掴んだ。 「犬猿の紅原と蒼宮が直接顔を合わせるのも面倒、かといって鬼祓いの縄張りで挨拶しないのも失礼だしなあ。流石龍藍殿、賢明な判断だ。俺からも龍藍殿が体調を崩したと伝えておこう」 綾人はいそいそと懐に入れる。そんな綾人を見ているうちにある疑問が銀雪の頭に浮かんだ。 「……なあ、陰陽師殿」 「何だ狐」  綾人は怪訝な顔をして首を傾げる。もしこんな質問をすればどんな反応をするのだろうか。そんなことが気になって問いを投げた。 「お前は龍藍に惚れているのか?」 「…………ん!? あ、いや……男が男に惚れるわけが無いだろ!?」  否定する割には動揺が激しい。いや、それ以前に男が男に惚れて何が悪いというのだ。銀雪は少し苛立った。 「それを衆道を行っている奴らの前で言えるのか?まあそんなことはいいが、違うのならば動揺する必要など無いだろう」 「…………」  綾人は奥歯を噛み締めて、下を向く。やはり惚れたのか。しかしこんな男に龍藍を託すことは出来ない。銀雪が口を開こうとした時、綾人が意外なことを言った。 「違う……俺が惚れたのは龍藍殿じゃない。龍藍殿に想い人が似ているだけだ」 「似ている……だけだと?」  尚更龍藍を近づけたくない。綾人の想い人に重ねられるなんて龍藍もたまったものじゃないだろう。だが、ここ数日龍藍の体調を気遣ってくれたことに免じてそれをはっきりとは言いにくい。銀雪は眼光を弱めた。 「そう、似ているだけだ。龍藍殿に手を出すつもりもない。だから龍藍殿には言ってくれるなよ」  綾人は足早にその場を去っていく。それを見送った銀雪は龍藍の傍に座った。 「そういえば、あいつの想い人とは誰だろう」  まあいいか。別に重要なことではない。銀雪は壁に凭れてうっすらと橙に染まり始めた空を眺めることにした。  綾人は宿に迎えに来た鬼祓いに案内されるまま歩きながらぼんやり考え事をしていた。想い人……俺が惚れた相手はあの銀の髪の男だろう。顔も髪と逆光で見えなかったが、ただ笛の音に魅了された。もしあの男が龍藍殿だとしたらと考えたことはある。だが外見が違う。それに龍藍殿は退魔の術を俺よりも扱えるが、あの男のように霧を扱うことはない。 「霧……」  武家の蒼宮殿の嫡男は蒼宮夕霧。もしや夕霧という少年が京の蒼宮屋敷に姿を表したのか。いや、でも事前に調べた夕霧少年の外見とあの男の外見は一致しない。どういうことだ。 「土御門殿? あのー土御門殿」  鬼祓いに数回呼ばれて、綾人は慌てて我に返る。気がつけば城下の鬼祓い屋敷こと鬼祓いの屯所に着いていた。 「っ……ああ、すみません」  綾人は顔を上げて、屋敷の門を見た。初めてこの屋敷を門を潜る。別に危険など無い筈なのに、緊張のあまり生唾を飲み込んだ。 「土御門殿、如何されましたか」 「いいえ、何でも……」  綾人は意を決して、鬼祓いの屋敷の門を潜ることにする。門を潜ると同時に空気が変わったのを感じる。相当強力な結界のようだ。ここまで頑丈なのは理由でもあるのだろうか。綾人は案内されるまま屋敷に入ることにした。  埃一つもない廊下を進み、客間に通される。客間に入ると、見慣れた人物が自分に向かって頭を下げた。 「綾人殿、お久しゅうございます」 「お久しぶりです。……叔父上」  綾人は震えそうになりながらも何とか震わせずに声を出した。声音も普段と変わらぬ叔父上。だけども怖いのだ。以前ならば、不器用ながらも優しくて暖かだった叔父上。そんな叔父上の瞳はあの日から、絶望の暗さと道を外してしまいそうな危うさがある。それが怖くて綾人は目線を僅かに逸らしてしまった。 「まさかこうして京からここまで足をお運び頂けるとは。有り難いことですが、どのようなご用件で蒼宮殿とここまでいらっしゃったのです」  鋭い眼光で射られて、綾人は目を瞑りたくなった。そりゃあそうだろう。本来は俺は陰陽寮で出仕している身。それなのにどうして此処まで来る必要があるかと疑問に思うのは当然である。 「実は青龍の捜索で此処まで来たのです」 「青龍の……?」  叔父上が眉間に皺を寄せる。そんな叔父に怯えながらも、綾人はここまで来た経緯を説明した。 「………師匠らしいと言えばらしい。貴方までその任を押し付けられるとは災難でしたな、綾人殿」 「言われてみればそうですね。ですが、十二天将を大切に思う御先祖様の気持ちは痛いほど分かります」  全盛期の頃と違い、土御門だけの十二天将は僅かに二人だけである。それでも十二天将に何かあるのは胸が痛くなるし、助けたいと思うのも事実だ。 「ええ……それは私も同じです。では此処に滞在される間は出来る限り、助力いたしましょう。それで、蒼宮殿は?」 「蒼宮は今旅の疲れで体調を崩しております。その代わり、これを……」  銀雪から預けられた文を叔父上に渡すと、叔父上はそれを広げた。文を見た途端、はっと目を大きく見開く。一体どうしたのだろうか。まさか叔父上に喧嘩を売ったのでは!? ひやひやしながら見守ると、読み終えた叔父上は静かに文を閉じる。 「蒼宮……龍藍殿か。……何故……あの子はとうに……いなくなったというのに……」  うわ言のように呟く叔父上。その声があまりにも痛々しくて綾人は叔父の顔を見られなかった。 「叔父上……? 一体どうなされたのです?」  あの子とは楓のことかそれとも別の人物のことか。どちらにせよ、此処まで動揺する叔父上の声を初めて聞いた気がする。綾人の問いに、秋也は我に返ると首を振った。 「いいえ何でもございません。みっともない姿をお見せしてすみませんでした」 「みっともないだなんてとんでもない。もしや蒼宮の文に気分を害したのですか」  龍藍殿に限ってそんなことはないと思いたいが、あの龍藍殿も蒼宮の人間だ。叔父上を傷つける言葉を書かないと保証は出来ない。叔父上は違いますと苦笑した。 「親切で礼節のある文でしたよ。まだ正式に陰陽寮に出仕なさっておりませぬが、彼方が身分が上。それに蒼宮と我等には消えぬ確執がございます。ですのに此方を細やかに気遣って頂けるのは零月殿以来でしょう」  叔父上は懐かしむように目を細めた。零月とは武家の蒼宮家の当時の当主。彼と叔父上は関係があったのだろうか。青龍の行方知れずには、零月殿は関係がある筈。ならば零月殿の人物像を確かめる必要があるであろう。 「叔父上、失礼ですが零月とはどのような関係があったのです?」  叔父上は軽く目を見開くと、目を伏せた。言葉を選ぶように片手に握られた鉄扇が揺れる。気まずい静寂が二人の間に生じ、綾人は自分の鼓動が早鐘を打つのが聞こえた気がした。 「…………親友でしたよ。この手で彼の命を絶ちましたがね」  どのくらいたったであろうか。感情の無い叔父上の声が静寂を破った。

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