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事実に向き合う時

いつまでも目を背けることは許されない  泉に引きずり込まれた綾人は水を大量に飲んでしまった。もがいても四肢を黒い穢れによって底に繋ぎ止められ動けない。幸い、呪符のお陰で穢れが体内に入ることは無かったが、意識が朦朧とする。やばい。これは流石に死んじゃうのでは? そんな不吉な考えが過る。龍藍殿は穢れに弱いであろう。そんな彼が助けになど来れる筈が無いのだから。死んだら叔母上や楓に会えるかな。綾人が目を瞑った時、冷たくて清らかな霊気を肌に感じた。  何だろうか。この霊気は以前にも感じたような……。目を開けると、自分の四肢を拘束していた穢れが砂の如く霧散している。代わりに美しい藍色が視界に広がっていた。何と美しい光景なのであろう。   いつまでも見ていたいと思う藍の景色。まるで日が沈みかけた時の空のような。綾人が見惚れていると、上から何かが近づいてきた。銀の髪を水に靡かせた青年。顔の半分を布で覆っているものの、彼が美しい顔立ちなのは理解できた。そして彼があの夜の笛を吹いていた天人であることをすぐに悟った。 「……」  会いたかった。俺は君に惚れたんだ。君の笛をもう一度聞かせてくれないか。言いたいことは山ほどあるのに、言霊は泡となり届くことはない。綾人が最後の力を振り絞って手を伸ばすと、銀の髪の青年が綾人の手を掴んだ。 「げほっ……げほっ……おえ……」  陸に打ち上げられた綾人は水を何度も吐く。足が痛いし全身だるい。俺を助けてくれた青年に礼を言わなければ、よろよろと腕に力を込めて起き上がる。綾人が顔を上げた時、全身が凍りついたように動けなくなった。視界に入ったのは泣きながら腕の中の人物に大声で呼び掛ける銀雪と、ぐったりと目を瞑る銀髪の青年。 「龍藍、目を覚ませ!! 氷雨のように俺を置いていくつもりか!?」  青年は大量の血を吐いたのか、血が衣を染めて吸いきれなかった血がぽたぽたと血溜まりを作っていた。  意味が分からない。龍藍殿は青い髪であったのに何故銀雪は容貌も違う彼を「龍藍」と呼んでいる?どうして彼はあんなにも血を吐いているんだ。頭の整理が出来ない。……違う。現実から目を背けてしまっているだろうともう一人の自分が囁いている気がした。もしかしてと勘づいてはいた。それでもその真実を確かめるのが怖くて目を背け続けていた。このままでいいのか。このまま目を逸らして惚れた相手がむざむざと死ぬのを見るだけなのか。綾人は頬を叩いて自分を叱咤すると、足に力を入れて衝動のまま駆け出した。そして半狂乱に陥っている銀雪の腕を掴むと、己に注意を向けさせる。 「何をやっている、この馬鹿狐!!」 「馬鹿狐とはなんだ!! お前のせいで龍藍がこんなことになったんだろうが!!」  確かにその通りだ。俺が油断などしていなかったら、龍藍殿は俺を助けずに済んだと理解している。それでも後悔の念に沈む余裕など無い。綾人は龍藍を見下ろした。龍藍殿は顔が真っ青になっており、霊力が安定していない。それに血の量はこちらの血の気が引くほどであるが……まだ死相は浮かんでいない。これなら何か助ける手立てがある筈だ。何か……助ける手立ては……。綾人が周囲を見回すが何も無い。焦る気持ちを抑えながら立ち上がろうとする。その時、足に何かがぶつかった。 「ん……?」  綾人は足に当たった物を掴む。ヒビを金で継いだ美しい呪具。何処かで見たことがあるような。 『叔母上のお守り綺麗だね。俺も欲しい!』 『良いわよ。綾人が良い子にしていたら作ってあげるわね』  一瞬、幼い頃の記憶が甦る。まさかこれは叔母上の呪具か。そういえば紐の部分が龍藍殿の首に下がっていた紐と酷似している。綾人は直ぐ様、龍藍の首に呪具を掛けた。これが合っているか分からない。どうか龍藍殿を救ってくれ……。綾人は龍藍の片手を両手で包みひたすら祈ることしか出来なかった。  その祈りが通じたのか分からない。むしろ叔母上の呪具が相当強力であったか、龍藍殿に呪具か馴染んでいたのであろう。しばらくすれば龍藍殿の頬に血の気が戻っていた。銀雪もそれに気づいたか、顔色は蒼白のままであるが安堵の表情に戻っている。銀雪は涙の跡をそのままに、己の衣が汚れるのも構わず、龍藍の顔を袖で拭っている。血を拭き取った龍藍殿はいつのまにかいつもの容貌に戻っている。この呪具は容姿を別の姿に見せる為の物であろうか。あの姿の方が美しいというのに。少し残念であったが、我儘を言っている余裕はない。 「やあやあ、ご苦労様。……あれ、僕はもう用済みかな?」  突如、男の柔らかな声が背後から聞こえる。綾人が振り返ると、いつもの龍藍殿のような青い髪と青い瞳の青年が立っていた。衣は神代の造りで、放たれる凄烈な神気。もしや……。 「貴様……!! 貴様が自分の住処の掃除すら出来ないせいで龍藍が……!」  銀雪の妖気が陽炎の如くめらめらと立ち上る。この一匹と一柱は知り合いみたいだが、神に口を利いてよいものだろうか。綾人がひやひやしているのをよそに、龍神が涼やかに笑った。 「それはすまなかったね。でもまあそこの陰陽師君が何とかしてくれたから良いじゃない? それに天将の救出も行えたし。……と言っても浄化しないと目覚めることは出来なさそうだけど。陰陽師君、そこの天将を抱えてくれないか」 「……はい」  言われるままに、俺はぐったりとしている青龍を抱き抱える。生きてはいるが身体から微かな神気も感じられない。天将にとって神気は血肉同然。それを殆ど失っている状態は相当まずいであろう。 「では二人ともついておいで。僕の社で休憩しよう」  龍神はにこやかに笑うと軽やかに山を歩き始める。拒否権などある筈もない。綾人は慣れぬ道を必死についていくのであった。  気がつくととっくに日が沈んでいたが、龍神のお陰で鬼一匹出やしない。歩くのが辛くなった頃に神域に着いたのだが、相当広く清浄な空間であった。神域の空間を潜ったとたん、これまた神代の衣を纏った少女が此方に駆けてくる。 「我が主、ようやくお二人の仕事が終わったのですね。……龍藍さんに何があったのです!?」  少女は龍藍殿の姿を見るなり、顔が一気に蒼白になる。おろおろする少女を龍神が宥めた。 「龍藍はもう大丈夫だよ。巫女、龍藍と天将に浄化と治癒を行うから宮の方の支度をお願いね」 「承知いたしました。では銀雪さんと土御門の陰陽師殿は私について来られませ」  巫女は先程までの表情は嘘かのように平静に戻ると、宮まで案内してくれた。宮の中に入れば一切の穢れも許さぬ清らかな空気に包まれる。ここで浄化を行うそうだが、ここまで清らかな空間ならば人界以上に浄化が容易く出来るのも分かる。  部屋の四隅を流れる水は、通常ならば水で床が駄目になりそうだが、神の建物だからそのような心配がないのだろうか。四隅から絶えず流れる水で霊気の入れ換えを行い常に清浄な神気を取り入れるという仕組みは何か人界で真似できないだろうか。土御門の血に伝わる探求心が止まらない。 「陰陽師殿? 陰陽師殿、支度が整いましたよ。早く天将殿を寝かせてくださいませ」  巫女に数度呼び掛けられて我に返った綾人は、慌てて青龍を敷物に寝かせた。巫女は数度手を叩くと、四隅を流れる水が淡く光を放ち意識の無い二人を柔らかく包み込む。 「よし、これで大丈夫です。次は土御門殿。貴方の浄化と治癒を行いますので座ってください」  本当に大丈夫なのだろうか。綾人は青龍と龍藍から視線を外さぬまま、その場に座ると治癒と浄化を受ける。若干の痛みはあったが、足の痣は殆ど無くなっていた。 「さて土御門殿、紅原殿か身内の方に連絡を。さもなくば神隠しに遭ったと思われるやもしれません」  確かに荷物を置いたまま宿に帰らなければ心、配されるだろう。それに鬼祓い達は俺達がいないのを不審に思うだろう。とりあえず叔父上にでも文を送っておくか。綾人は携帯用の筆と紙を取り出して文を書くと、折って宙に投げる。紙は駒鳥のような姿になると、ぱたぱたと紅原の元に飛んでいった。  これで行方不明扱いにならずにすむ。さてこれからどうしようか。まず龍神に保護していただいたことへの礼を……。  立ち上がった途端、ぐうと大きな腹の音が響いて綾人は赤面した。銀雪を見ると、銀雪はにやっと笑う。こいつ……やっぱり俺のことを馬鹿にしているだろ。むっとする綾人のことなど知らぬと言うかのように銀雪が巫女に問う。 「そういや半日以上飯を食ってなかったな。巫女、なんか食べ物あるか」 「ええ。昨日白が色々と買い足しに行ってくれたのでありますよ。今から食事を作りますので銀雪さん、手伝ってくださいね」 「へいへい。ところでそこの陰陽師さんを手伝わせなくても良いのかい?」 「彼は客人ですよ。そんな真似はさせられませんよ。では陰陽師殿、外の館の方で休んでくださいな。今から食事を用意しますから」 「いや俺も手伝います」  服装や纏う空気からして相当この巫女は長命であろう。そんな相手に自分の世話をさせるわけにはいかないし、自分は此処に入らせていただいている身だ。手伝いを申し出たが、巫女は首を横に振った。 「いいえ。貴方は邪気に侵された上、霊力が枯渇した状態。その様子では体力も限界でありましょう。今の貴方の仕事は休むことですよ」  確かにそれはそうだが、何もしないままでは役立たずなのでは……。綾人の気持ちを察してか、巫女はふわりと微笑みかける。 「では陰陽師殿、食事が出来るまでここで眠る二人を見守っていてください。何かあれば呼んでくださいな。私たちは隣の建物の厨にいますので」  それなら自分にも出来る。綾人が頷くと、巫女と銀雪は宮を出ていった。 「……俺は役立たずだ」  一人になった途端、言葉が勝手に零れる。気がつけば頬から止めどなく伝い落ちるものがあった。  元々俺は劣る存在であると自覚があった。それでよかったのだ。優秀な兄が家督を継ぐ。俺は兄にもしもがあったときの予備の存在であり、兄を支えるために生まれたも同然であろう。それでも言われるままに、土御門の血に相応しい陰陽道や武術を覚えていったのだ。  それで十分と思っていたのに今回何も出来なかった。むしろ龍藍殿の身を危険にさらしてしまった。俺は油断をしなければ、龍藍殿は血を吐かなくて済んだ。俺があの蟲毒と化した泉の穢れを祓えていれは青龍をもっと早く救えた。全ては俺が無力だったからだ。 「強く……ならなきゃ……」  生まれてから今まで父や兄や天将に守られるだけであった。そんな俺が誰かを守れるようになるには強くなるしかない。倉に読んでいない術書がある。実戦経験を積む必要もある。出来ることを片っ端からしなければならない。綾人は龍藍の手をそっと両手で包んだ。 「龍藍殿……私は貴方を守れるように強くなります。ですから………早く起きてください。また一緒に団子でも食べましょう」  これ程までに誰かを守りたいと思えたのは、貴方だけなのだ。それなのに貴方のことを知らない。もっと貴方を知りたい。綾人は言葉に出来ぬ溢れる思いを口にする代わりに、龍藍の手の甲にそっと口づけをする。 「おい土御門飯が出来たぞ」 「分かった。今行く」  外で聞こえた銀雪の声に返事をすると、宮を出る。 後ろ髪を引かれる思いで出口で何度も振り返ってから二人が眠る宮を後にした。  食事に呼ばれて来てみれば、豪勢な料理の数々。銀雪と龍神と巫女と俺と……見知らぬ短髪の少年での食事。料理は上手いのだが、神と食事を共にするという緊張感と見知らぬ少年の存在に、綾人は料理の味に集中出来なかった。 「あの……私が神の食事の席に出てよろしいのですか?」  綾人がぎこちなく尋ねると、龍神は飄々と笑った。 「別にいいよー。普段は客人を呼ぶこともないし。ここ最近食事に招いたのは独り身時代の零月と銀雪。それよりも前はまだ若き頃の紅原の頭領と影縄君ぐらいかな。最近と言っても20年以上前だけど」  この神は天津神で、陰陽師嫌いとある書物の記述に残っている。しかし現実は俺を食事に招いたり鬼祓いとも食事をする物好き。この神は陰陽師が嫌いなわけではないのだろうか。いや待て、この龍神は紅原家の守護神と対立関係にあっただろう。叔父上をどうして招いたりしたのだろうか。……等と聞いては龍神の機嫌を損ねそうで喉まで出かけた問いを飲み込む。代わりにもう一つ気になっていることを聞くことにした。 「すみません。そちらの方はどなたなのです」 「ん? 俺のことか? 先程会ったというのに分からぬのか?」  視線を向けられた少年は子供らしからぬ言動をして首を傾げると、ああと手を叩いた 「あの時は、本性姿だったからか。龍藍とおぬしを道案内した狼を忘れておらぬだろう?」  綾人は記憶を遡る。確かに狼がいたのだ。それは銀色の綺麗な狼で……。 「あの山の主か!?」 「山の主はそこにいる主様だ。俺は山の番人と言ったところか。俺は白。以後よろしく」  白はそれだけ言うと、もごもごと食事を再開した。白という名。なんというか素朴すぎる。まるで犬の名前か何かだ。一体誰がこんな名前を付けたのだろうかと気になった。 「白って名前を付けたのは秋也らしいぜ。まああいつらしいわな。それよりもお前、冷める前に食べろよ。せっかく巫女の手料理だぜ」 「ああ……」  聞きたいことは尽きぬ故、全て聞いていては料理が冷めてしまう。綾人は慌てて料理を全部綺麗に食べた。だが食べている間、龍藍と青龍の様子が気になって食事の味など分からなかった。  食後は小さな泉で身体を浄め、お借りした衣を身につけることにした。今まで身に付けていた衣は水ごとあの泉の穢れを吸っていたため、神域の水に浸している。どうせ二人が目を覚まさないのだから、数日は此処にいることになるだろう。その頃にはもう乾いている。それまで俺はただ目覚めを待つだけなのだろうか。綾人は沈んだ面持ちで庭の池を見ていた。 「浮かない顔をしているね。陰陽師くん」 「うわあ!?龍神様……!?」  横からひょっこりと顔を出したのは龍神。俺が驚いて跳び跳ねると、龍神はくすくすと笑った。 「どうしたんだい? 天将と龍藍が心配なのかな。彼処にいれば龍藍は明後日には、天将は十日もすれば起きるよ」 「そうですか……」  龍神が嘘をついているようには見えない。綾人は深く安堵の溜め息を吐いた。龍神は綾人をじっと見ながら首を傾げる。 「綾人君って……龍藍が好きなの?」 「はいっ……!?」  突然聞かれて綾人の頬が真っ赤に染まった。耳まで赤くする綾人を見てにやにやと龍神は目を細める。 「そうかー。龍藍のことが好きなんだね。いやー微笑ましい」 「龍神様っ……! そんな大きな声で仰らないでください。銀雪に聞こえたらなんと言われるか……。それに……まだ龍藍殿にはこの想いを告げていないのですから」  綾人は気まずそうに目を伏せる。龍藍殿には色々酷いことを言ってしまった。それに互いに互いのことをまだよく知らない。そんな俺の気持ちを知ったら拒まれるに決まっている。 「分かったよ。君の想いを龍藍が知るのは君の口からが良いからね。……綾人君、もう気づいているだろうけど、半分人でないと知っていながら彼が好きなの?」 「はい。人でないとか関係ない。俺は俺に手を伸ばしてくれた彼に恋をしたのです」  初めは月の夜に一目惚れをした。そして水底で彼に心を奪われた。こんな無力な俺に君が命を賭してくれたのが、申し訳ないというのに嬉しかったんだ。 「…………君の想いを龍藍が受け入れるかは彼次第。それでもひとりぼっちだった彼が、家族以外に愛されているのは我が事のように嬉しいよ」  龍神は優しい顔で笑うと、綾人の頭を子供のように撫でた。

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