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十年の溝

知らぬ十年の内に出来た溝  神となった自らの神気を送るのと引き換えに流れ込んできていた邪気がぱたりと消える。 「ようやく終わったのかな」  自分が課した任務を、あの素直でない子孫と半龍の青年が終えたことを理解し晴明は微笑んだ。あの子達はちゃんとすると思ってたから心配はしていなかった。……問題は、あの子が無茶をしていないかであるが。 「私と違ってあの子のお母上は龍だしなあ………。前例が無いから、下手に力が暴走するとまずい。晴子の呪具があるといえども、晴子が作ったのは十年以上前。耐久性を考えると危ないよね」  その時、ぱたぱたと烏が此方に飛んでくる。晴明が手を伸ばすと、腕に烏が止まった。 「黒、お久しぶりだね。秋也からの文かい?」  黒と呼ばれた烏は頷くように首を縦に振ると、文に形を変えた。それを器用に掴むと中を開く。真面目すぎるきっちりとした文字が視界に入った。  綾人殿から、鷹智家領地の山の龍神の神域で保護されていると文がございました。龍神の山の領域には現在入ることはかないませんが、蒼宮殿が目覚め次第に山に招くと神の使いから伝言がありましたので、彼らの迎えに参るつもりです。師匠から土御門殿にお伝えください。  ……まさかあの龍神が綾人を神域に招くとは。それなら青龍もあの神の神域ならば癒えるだろう。早く会いたいと気が急いてしまいそうになるが、私が京から離れるとまずい。  それは置いといて生前の私のせいであの神は大の陰陽師嫌いだったがどうしたことだろう。七百年も経てば心変わりでもするのだろうか。それともお気に入りであろう龍藍君と綾人が共にいたからだろうか。 「龍藍君も秋也もちょっと危うい感じするけど、綾人大丈夫かな……」  あの子は口が悪いが、人の気持ちを気遣い過ぎて疲労する性分だ。板挟みでもならないといいが。晴明は遠くにいる綾人の安否を少し心配するのであった。  綾人から届いた文に目を通した紅原の当主は、苦虫を噛み潰したような顔で額に手を添えた。……まさか、甥が自分のように彼処に保護されるとは。彼処では恩を返しきれぬ程世話になった。その分面倒事を押し付けられたりしている。甥もそのような事になりそうだと容易く想像できた。  何はともあれ、綾人とその付き添いの蒼宮が無事であることに安堵する。だが、腹の底で黒い感情が蠢いていた。どうして彼が貴族の家の養子となっている。まさか彼が里の襲撃事件に関与したのでは……。ありえないと思いつつも、疑う気持ちが拭えない。  それに彼がどうして今ごろになって現れた。私を殺しに来たのか。別に生きることに執着がないので構わない。正直に言ってしまえば………妻の後を追ってしまいたい。 「おい、蛍火。暗い顔をしてどうした」  紅原が顔を上げると、見慣れぬ青年が外に立っていた。銀色の短い髪の美しい青年は袴なのに裸足という奇妙な格好。此処は里の頭領屋敷だ。余所者が気配も無く里に入れる訳がない。この里の結界を潜れるのは里の者と幼少期に助けたあの狼ぐらいで………。 「…………まさか白か!?」 「そうそう。俺だよ蛍火。この姿で会うのは初めてだな」  成長した狼の姿は見ているし、狼が龍神の使いになっているのは知っていたが、まさか人に化けられる程成熟したとは。紅原が感慨に浸っていると、白は真面目な顔になった。 「まずは主の伝言を言う。『紅原の当主よ。蒼宮の者が目覚めたので今すぐ我が社に来られたし』。というわけで蛍火、俺に着いてこい」  龍神は何を考えているのか。紅原の目が冷たく光った。  正常な判断力を取り戻した龍藍は、まず綾人が自分のことをどれだけ知ってしまったかを確認することにした。 「それで……綾人殿は私の素性などどのくらい知ってしまったのですか」 「…………貴方の幼名が蒼宮夕霧で、半分大陸の龍の血を引いていること。そして此処の龍神の加護を受けておられることですかね」  ほぼ全部じゃないか。龍藍は苦虫を噛み潰したような顔で下を向く。流石に龍神の眷族であることは露見してないはず。 「綾人殿はそれを知ってもなお、私にあんなことを言ったのです?」 「あんなこと?」 「あの……私に惚れたとかそういったことを」  口にするだけで恥ずかしくて、頬が熱くなる。いや、僕は綾人殿のことをそういう目で見てないから恥ずかしがる必要など無いのだ。友なのだから。 「ああ、そのことですね。……ええ、半龍であることなど関係ないのです。俺は貴方に惚れたのです。今は友になって頂けましたが」  初対面の時と違っているのは心変わりされたのだろうか。まだ恋仲にはなってないが、「半龍であることは関係ない」と言われるのは嬉しい。 「……貴方は、私が悪人だったらどうするのです。私は土御門の前でいくつか虚偽の発言をいたしました。私が土御門や紅原家を害するとは思わないのですか」  お前はするわけ無いだろと銀雪が視線で伝えてきたが、龍藍はこれを無言で制す。 「龍の血を使ってでも俺を助けてくださった貴方を疑いませんよ。それに素性を偽っていたのはそうせざるを得ない状況でしたからでしょう。貴方が兄に打ち明けない限りは俺はこのことを胸に秘めましょう」  眼から伺えるのは嘘偽り無い綾人の意思。どうしてそんなに私を……。龍藍は素性を偽っていたことに罪悪感を覚えていた。  その後、他愛もない話題に変えて話をしていると、龍神様がやってきた。 「お二人と一匹さん。お喋りも良いけれど、もうすぐ紅原が来るから客間に行きなさい」 「紅原殿が来るんですか。……え!? いや、叔父上は龍藍殿とは顔を合わせない約束ですよ。流石にまずいのでは……」 「そうです。そもそも龍神様が紅原殿に近づくなと仰ったではありませんか!」  二人に抗議されて、龍神はばつが悪そうに頭を掻いた。此方は目覚めてまだ一刻程度しか経っていないのにどういうことだ。 「まあ確かに紅原の心が危ういから近づくなとは言った。だが、あれは人界での話だ。……此処は私の縄張り。安心しなさい。お前に傷ひとつ付けようものなら、あやつの首を斬り捨て、魂を地獄に送らせてもらう」  平然と言う龍神に綾人の血の気が引いた。叔父上は考えなしに不利となる判断は取らない。だが……叔母上や楓のことに関してはどうなるか分からない。 「確かにそれはそうですけど……どうして紅原殿を此処に呼ぶのです。綾人殿の文で安否は伝えたのでしょう?」 「言うてしまえば、互いの誤解の解消だよ。君は夢で零月の話を聞いたから良いけど、紅原は妻子の死に君が関与しているのではと思っていてもおかしくない。薄氷が外法師と手を組んでいた疑惑もあるそうだからね。その上、薄氷は紅原が貴族のお嬢さんと駆け落ちする際、わざと貴族のお嬢さんを狙って紅原に庇わせて瀕死にしたくらいだし」  薄氷の過去の所業を聞いて、龍藍と綾人は青ざめる。そんな二人を横目に銀雪はああそういうことかと納得した。 「道理で凄い傷だったんだな。本気で殺す気だったのか」 「そうとしか考えられないよ。でも紅原の生命力というか運の良さには敵わなかったみたいだけどねえ」  龍神と銀雪が懐かしんでいる様子を見て、何をこの一匹と一柱は和んでいるのだと綾人と龍藍はおもった。  紅原殿が来るまでさほどかからなかった。客間で待機していた綾人と龍藍は紅原が入ってくるとごくりと唾を飲み込む。龍藍の傍で隠形をしている秋也の背後に視線を向けていた。 『紅原いるところに蛇ありと言われているが、やはりあいつ来ているな』  紅原の蛇と言えば、あの青年の姿をした黒い蛇と騰蛇。私は騰蛇のことは一度も目にしたことはないが、もし騰蛇であったら隠形しても神気を隠しきれないし、私の記憶であれば紅原殿の傍にいたのはあの青年しか考えられない。 「土御門殿と蒼宮殿。まずは貴殿方のご無事と天将の救出成功をお喜び申し上げます」  紅原は二人と一匹の向かいに座るなり、頭を下げた。綾人は戸惑いつつも頭を下げる。横目で龍藍を見てみると、龍藍はどこか緊張した面持ちであった。 「紅原殿、わざわざ此方まで来てくださってありがとうございます。そして……最初は紅原殿と龍藍殿の直接な面会を避けようとしていたのですが撤回するという形となって申し訳ございません」 「いえ、お気になさらず。いつかは龍藍殿にお会いしたいと願っておりましたから」  紅原は綾人から龍藍に視線を移す。龍藍は紅原のどこか冷たくも悲しい眼差しを受けて、背筋が凍りつく心地がする。 「ああ……やはり、父君に似ておられる。蒼宮殿、お尋ねしたいことがございます」 「…………私で答えられることであれば」 「蒼宮殿……いいえ、夕霧殿。貴方は十年もの間、どのようにお過ごしだったのです。そして貴方は何故今頃になってお姿を現したのですか」  紅原の目は、一切の嘘を許さぬと言いたげな冷たい視線で龍藍を射抜いていた。 「……他言なさらないと誓って頂けるのであれば、お話ししましょう」 「紅原は土御門と鷹智の陰となるもの。他言しないと誓います」  紅原殿は真顔で答える。紅原は伊賀の忍びの末裔と言えど、騙し討ちはしないと思いたい。それに……敵対することの方が、私だけではなく翠雨にとってもまずい。緊張で龍藍の心の臓が早鐘を打ち、唇が重く感じる。そんな龍藍の背に温かい手が触れる。それは綾人の手であり、龍藍が綾人を見ると綾人は静かに頷いた。 『大丈夫です。私が傍にいます』  触れ合っているからか、綾人殿の念話が聞こえてくる。どうしてだが、その手と声のぬくもりに安心する。龍藍は紅原に視線を戻すと、重い口を開いた。  自分があの夜連れていかれたのは、かつて家族で過ごした別邸。そこで自分は叔父に呪いを掛けられた。叔父上以外の人や神から見えぬ呪い。別邸から離れ人里に下りれば、足の肉と骨が裂ける呪い。そして……あの夜以前の記憶が稀薄となる呪いである。3つの呪いをかけられてただただ叔父に言われるままに陰陽道や呪術の方法を学んでいった。叔父はずっと紅原は父の仇で一族郎党皆殺しにしろと私に言い聞かせていたが、ついぞ学んだことで殺生をすることはなかった。  そして10年後に叔父が亡くなったことで3つの呪詛の効力が消え、外に出られるようになった。そこで叔父が死ぬ前に言っていた、叔父の子が元服するまでの後見人となれるようにいう命令のままにと山を降りた。 「では……五年前のあの出来事には関与なさっていないのですね」 「関与しておりませぬ。ただ叔父上から聞かされたから知っていました」  実際は瀕死の時雨を助け出した際に、彼の口から聞かされたのだが、そこは重要ではないだろう。むしろ話せば時雨が大変なことになる。  龍藍が妻子の死に本当に関わっていないことを、龍藍の目や話す仕草から悟った秋也は、大きく安堵の溜め息をついた。  よかった。もし彼が関与していたら我を失ってとんでもないことをしかねなかったのだ。勿論そうなった私を殴ってでも止めるようにと、影縄を傍に置いているのだがと紅原は影縄が潜んでいる己の影を一瞥した。  一方、淡々と自分の過去を話す龍藍を見ていた綾人の顔は、どんどん青ざめていた。そこまで自分の甥にする必要があったのか。龍藍の足首を見てみると、うっすらとであるが痣のような呪詛の痕があることに気づいた。 「その……龍藍殿に掛けられた呪詛は本当に全部無くなったのです?後……ずっとお聞きしたかったのですが、その目もまさか薄氷殿に……」 「さっきも申した通り、呪詛は叔父が死んだと同時に消滅しましたし、これは叔父上の物ではありません。……大切な知り合いを生かすために代償にしただけです」  龍藍は包帯の部分を指すと、安心させるように微笑んだ。それでも綾人は痛みを感じたかのような表情で唇を噛む。別に貴方のせいでもないし、貴方が痛い訳ではないのにどうしてそんな顔をするのだろうか。 「私は一通り答えましたし、次は紅原殿が私の問いに答える番です」 「勿論、なんなりと答えましょう」  本当に訊いてしまって言いのだろうか。躊躇いはあれど、この人の口から言っていただく必要がある。 「紅原殿……貴方は私の父から頼まれてあの人を介錯したのですか」  声音の響きはどこまでも静か。だがその言葉が龍藍の口から溢れた時、綾人は何かがひび割れる音を聞いた気がした。恐る恐る叔父を見ると叔父の瞳が凍りついたが如く見開かれている。これはまずいのでは………。綾人が見守る中、叔父は口を開いた。 「はい。……私は貴方のお父上を手に掛けました。貴方が私を憎むのは至極当然。この首を斬ってくださっても構いませぬ」  龍藍殿にとって叔父上に憎悪を向けてもおかしくない。だが叔父上は大切な親戚だ。綾人は慌てて口を挟む。 「叔父上そんなことを仰いますな。貴方は介錯を頼まれただけではありませぬか。龍藍殿……憎いのは分かりますがどうか叔父上は……」  綾人の言葉に龍藍は怪訝な顔をすると、綾人が勘違いしているのを悟り困った顔をする。 「綾人殿安心してください。そんなことなど望んでいません。私は父の最期が知りたいのです。どうかお聞かせください」  綾人と紅原は驚いた顔で、龍藍の顔を見つめる。龍藍は二人が想像したような復讐心など抱いてはいなかった。ただ、笑顔で自分を逃がしてくれた父の散り様が知りたかった。  紅原は話して良いものかと悩んだ。一言で言ってしまえばあまりにも親友(零月)は痛々しい姿で亡くなった。脳裏に浮かぶは真っ白な雪を染める親友の血。思い出すだけで、胸が締め付けられて痛い。 「……承知いたしました。お話し致しましょう」  それでも彼の最愛の子が聞きたがっているのだ。紅原は決意を固めると、静かに話を始めた。  紅原が部下に火急の用と告げられて蒼宮の屋敷に来てみれば、屋敷は赤い炎に包まれ、二十数名の死体が周辺に転がっていた。そして庭の木の根本に血だらけでぐったりする零月の姿があった。  出血の量はあまりにも多く、彼の周りの雪は真っ赤に染まっていた。もう手遅れだと知りつつも、紅原は必死に零月に呼び掛けると、零月は目を覚ましたが血を何度も吐いていた。  助ける方法は、誰かの命を代償にすること。紅原は自分が頭領という立場であることも忘れて自分の命と引き換えに零月を助けようとした。 「私は怖かったのです。私は若い頃に育ての父を失いました。育ての父と零月殿が重なってしまい、この身を投げ出しても助けたかった。それなのにあの方は私の申し出を断られた。むしろ、私の手で介錯をしてくれと頼まれたのです」  親友の肉を刃で切り裂く感触と鼓動が止まった瞬間は、いまだに忘れることが出来ない。穏やかに笑うあの死に顔を見て涙が止まらなかった。十年経ってもこの痛みは和らぐことはなく、むしろ妻子の死で痛みも重なり傷口は膿み続けている。  最後まで目を伏せて聞いていた龍藍は泣きそうな顔で笑った。 「そうなんですか。……父が幸せそうな顔で亡くなったのですね。ありがとうございます。父が穏やかな死に顔が出来るように介錯してくださって」  ずっと気掛かりだった。父が苦しんで亡くなってないだろうか。父が絶望の淵に堕ちてないだろうか。それだけが聞きたかった。紅原の声音や話している間、強く握り締めるあまり血が滲む手から嘘は感じられない。龍藍は安心した途端、目頭が熱くなった。 「それで、そちらは夕霧が連れ去られるまでの経緯は知っているのか」 『銀雪……! 貴方は一体どうして今まで姿を見せなかったのです! 龍神に引き渡されてから全然姿が見えないから、最悪の事態を考えてしまったではありませんか!』  銀雪が隠形を解くと、新たな声が響く。銀雪は紅原の影に視線を向けると、口角を上げた。 「久しぶり、影縄。あと心配させてすまない。俺が姿を見せなかったのは、十年近く眠っていたからだよ。瀕死の龍藍に全身全霊で俺の妖力を注いだからな。だから龍藍の髪は俺そっくりの銀色なんだよ」  なるほど。通りで銀雪と龍藍殿の髪色なのか。父の死や薄氷殿の幽閉によって髪色が変わったのではないと知り、綾人はほっとする。 「そういや……お前は夕霧が連れ去られた経緯を知っているのか。知っていれば、夕霧を探せた筈だろ」  相手が貴族であろうが、藩でも一目置かれた学者の嫡男を誘拐しては、藩に喧嘩を打ったも同然。問題にならなかったのか。すると叔父上は首を横に振った。 「現場にいた紫花は、龍藍殿を連れ去った賊に『話せば龍藍殿の命が無い』と口止めされていて聞き出すことは出来なかった。それに私や里の者を総動員して占術や手分けして探ってみれど、手懸かりは無し。それに『蒼宮の問題に貴様は手を出すな』と薄氷殿に突っぱねられてしまった」  陰陽師は占術が本業。それに薄氷殿は外法師と手を組んでいた可能性のある人物だ。占術の結果を読めなくする方法を知っていたかもしれない。 「龍藍によると、俺が意識を失っている間に薄氷が直々に鬼祓いの拠点を襲撃し、龍藍を連れ去っている。その際に、薄氷が青龍の神気を帯びていたというが……あいつは眠っているしなあ」  起き上がるまであと数日は要する。その時に叔父上を呼んだ方が良かったのにどうして龍神は叔父上を呼んだのだろうか。 「よしよし。互いにあからさまな非は無いと理解しただろう。今の内に神であるこの僕の前で和解の契りでも結んだらどうだい」  気がつけば龍神が壁に寄り掛かっている。呼んだのはそれが目的だったのだと、部屋にいる全員が悟った。 「確かに龍藍殿の父君と私は両家の和解の成そうといたしました。ですがそんな急に出来ましょうか」 「君の里で評定を行ってからにしようってかい? 評定が難航するのは痛い程理解しているだろう。何、君の命に比べれば和解の契りを結ぶのは軽い」  確かにそうだが、両家の確執は深い。零月殿と叔父上が親友であったことが信じられないくらいに。 「私を此処に招き入れたのは、そういうことでしたか」 「そういうこと。断れば君の命は無いよ」  龍神の口調は飄々としているが、その眼差しは寒々としたものであった。叔父上には断る術などない。だがどうしてそこまで和解に拘るのだろうか。 「龍神よ。どうして和解が今なのです。龍藍殿が正式に陰陽寮に入ってからでもよろしいではありませんか」  叔父上もそれが気になったのか、龍神に問う。すると龍神は唇から笑みを消した。 「もうそろそろ、土御門は龍藍の正体を暴いてもおかしくない。なので此方にいる天将が目覚め、京に彼らが戻れば龍藍の身が危うい。龍藍に万が一のことがあった際、守ってほしい」 「土御門の私が龍藍殿に着くのだから、紅原の助力など無くても………」  俺の立場を利用することで龍藍殿を守れるなら、本望なんだが。思わず口を挟んでしまうと、龍神は俺の方に視線を向けた。まるで分かってないなあと言うように。 「君は龍藍に恋情があるのだろう。恋情だけで味方などしてと思われかねないよ。むしろ此処は本来敵対関係で僕に借りがある紅原が使いやすい訳さ」 龍神が『僕に借りがある紅原が』と言った時、叔父上は過去の失態を露見されたとでも言うように苦々しい顔をした。 「確かに返せぬ程の恩がございますが……」  返せぬ程の恩とは何があったのだろうか。叔父上は難しい顔をしていたが、やがて顔を上げた。 「ええ、では仮ではありますが両家の和解の契りを結ぶと致しましょう。……その前に、龍藍殿。貴方は『武家』に戻らなくても良いのですか。貴方はまだ正式に陰陽寮に迎えられていない。今が武家に戻る最後の機会なのですよ。その場合は私が後ろ楯になりましょう」  そうだ。龍藍殿は10年前まで武家の嫡男として育てられて来たのだ。ならば本当は武家として生きたいのかもしれない。だが龍藍は首を横に振った。 「そのお気持ちは有り難いですが、お断りさせていただきます。戻ったところで何になりましょう。家族で過ごした屋敷はとっくに燃え尽き、初めて恋した方は手の届かぬ場所にいます。それに……従兄弟が元服するまでは傍で守ろうと決めたのです。過去を追うよりも私は今を生きたい」  凛とした偽り無き言葉。どうして仇の息子を守りたいと思えるのか。彼に流れる龍の性情なのかは分からない。それでもその言葉に綾人は胸を打たれた気持ちになった。叔父上はただそうですかと反応する。残念がっているのか、はたまたお荷物が増えずに済んだと思っているのか。いや、叔父上は普段から仕事が多いらしいから荷物となる案件が一つぐらい増えても変わらないだろう。 「よし、ならば巫女に墨と紙を持って来てもらおう。立会人は僕と……土御門君ね」 「それが良いですね。では、綾人殿。立ち合い人としてよろしくお願いしますね」 「は……はい! 勿論ですとも」  急に龍藍に名前を呼ばれた綾人は驚いて飛び上がりそうになるのを堪えて返事をする。綾人は微笑む龍藍の青い瞳を見つめながら、本当に美しい方だなと見惚れるのであった。  そして紅原家と蒼宮家の和解の契りが行われた。と言っても蒼宮の正式な当主はあの幼子だし、叔父上の方も鬼祓い達と決めなかった為、個人同士の契りと言っても過言ではない。叔父上と龍藍殿が書状の内容を書き記し、名前の最後に血判を押す。これにより、互いに危機に瀕した際、影ながら助け合う誓いを記した。いつに間にか、叔父上の式神は姿を見せており、叔父上を無言で見守っている。銀雪の方も龍藍殿をただじっと見つめていた。  和解の契りは無事に終わり、叔父上はすぐさま帰ると言い出した。そこまで急がずともと説得しようとするも、叔父上は仕事があるからと代わりに青龍が起きるまでの間、叔父上の式神を預けていってしまった。出ていく直前、叔父上はこう言い残した。 「人界では貴方達がいなくなって半月経っております。此方からも伝えておきますが、あまりご家族に心配をかけないように。それと夕……いや龍藍殿のことをどうかよろしくお願いします。あの子がこれ以上辛い思いをしないように……」 「はい。全身全霊を懸けてお守りします」  言霊とは本当にあるようで決意を口にする度に、決意が胸に刻まれていく。横で聞いていた龍藍殿の白磁の肌にかっと朱が差した。龍藍殿は頬の熱を払うように目をぎゅっと閉じてから目を開ける。 「紅原殿。最後にお聞きしたきことがあります」 「龍藍殿、何でしょうか」  龍藍殿の青い眼が叔父上を見据える。龍藍殿は一つ息を吸ってから問うた。 「私の父のことを……どう思っていますか」 「あんな願いを最期にしたことは……いまだに怒ってます。いえ、悲しんでいるのかもしれません。……私は彼に生きてほしかった。ですがそれ以外は、非の付けようが無い自慢の友でした」  悲しげに叔父上は目を細めると、背を向けて帰っていった。  叔父上が帰った途端、龍藍殿はぽろぽろと涙を溢した。俺は慌てて手拭いで龍藍殿の目を拭う。 「大丈夫ですか龍藍殿!? 叔父上も少しくらい穏やかな顔をしたっていいのに。龍藍殿、叔父……紅原殿が不快にさせましたか!?」 「いいえ、違うのです。……父上を友として今でもあれほどまでに大事に思っていることが嬉しくて」  よく見れば幸せそうな顔で涙を流している。俺は現在、あんまり父と関係が良くないので、そんなに父を大事に思う蒼宮殿の気持ちが少ししか分からない。それでも龍藍殿の嬉しいという気持ちは痛い程伝わってくる。綾人は微笑むと龍藍の涙が止まるまで、そっと何度も涙を拭った。

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