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答え合わせ

死人に口は無くとも、その罪によって傷は残る  青龍が目を覚ましたのは和解から三日後のことだった。目蓋が開き焦点が合った途端、神気が爆発した。 「薄氷貴様___!!」  怒りに満ちた顔で飛び起きると、恐ろしい形相で周囲を見回す。まずい、建物が壊れてしまう。そんな俺の心配は杞憂とでも言うように、叔父上の式神こと影縄殿がすっと青龍の影を手で押さえつけるようにする。影を伝い、黒い妖気が青龍を拘束し凄まじい神気を一気に押さえた。青龍は怒りのまま影縄殿を睨んだ。 「紅原の式神、貴様も薄氷と仕組んでいたとはな……! 私をさっさと離せ! でないと零月と夕霧が……!」 「青龍様、落ち着いてください。貴方が行方知れずとなってから数年経過しております。それに夕霧殿も私の隣におりますよ」 「何……!? え……夕霧……!?」  ようやく気づいてもらえた龍藍は苦笑する。この元気ならばもう大丈夫だろう。自分よりも年下の外見をした青龍の傍に片膝を付くと、龍藍は口を開いた。 「お久しぶりですね、青龍。夢で話したのを覚えていないですか?」  青龍は動揺のあまり言葉も出なかったが、徐々に泉に沈んでいた時の記憶を思い出す。まさかあれが本当のことであったとは。零月と瓜二つではあるが、彼よりも憂いを帯びた瞳と、包帯で隠した痛々しい顔。かつては金糸だったというのに銀色に変わってしまった髪。それを見ただけで全てを察してしまった。 「薄氷の愚か者………」  涙など流してはいけない。目の前にいる彼は、私が薄氷を止められなかったせいで、辛い思いをしたのだから。それでも天将の頬から透明な雫が落ちる。 「夕霧……申し訳ございません。私が自分の主が足を踏み外すのを止められなかったせいで……」 「いいのです。貴方のせいではない。だからそんなに泣かないでください」  気づけば青龍の神気は暴走しなくなっている。龍藍殿が青龍の涙を拭っているのを見ながら、俺は銀雪の隣にいた。銀雪はぜいぜいと息をする影縄殿を労っているのか、水の入った升を渡している。銀雪は俺の肩をつんつんと突くと、俺は銀雪に視線を向けた。 「羨ましいか」 「別に。俺は龍藍殿の涙を拭ったし」  銀雪はにやりと笑うと、影縄殿に視線を戻して二人で話していた。  冷静になった青龍が話し始めたのは龍藍と綾人と銀雪が予想していた通りの事実であり、あまり知りたくなかった執念であった。 「薄氷は以前は優秀な人物でした。ですが、何かがおかしくなってしまったのは零月様が龍の女性と祝言を挙げられてからです」  薄氷殿は自分に相談もせず勝手に祝言を挙げた零月殿に不満を持っていた。そうは言ってもそれを唯一の連絡手段である文で追及することは出来なかった。その時、茶屋で知り合った男と仲良くなって薄氷殿は悩みを全て打ち明けていた。 「あの男が薄氷を狂わせたのでしょう。そこから少しずつ、零月様への不満を溢すようになりました」  それでも薄氷は零月に事ある毎に資金を用立てて貰ったり、当主としての立場に対しての不安などの相談をしていたので零月に文句を言えなかった。  だが、それが変わったのは叔父上と零月殿が結んだ楓と龍藍殿の婚姻である。武家よりも陰陽家の蒼宮の方が紅原を敵視している。その上、薄氷殿は叔母上の許嫁候補であり、叔母上に恋心を抱いていた。薄氷殿は叔父上のことが怨めしくて堪らない。    そんな中、零月殿と叔父上の交わした和解の契りは薄氷にとって裏切りも同然であったのだろう。それ以降、薄氷殿は零月殿に暴言を綴った文を送りつけるようになった。和解以前にも零月殿は薄氷殿を納得させようと宥める文を送っていたが、和解後はなんとか薄氷殿を宥める文を返すようになる。  自分の怒りに一切反応しない兄。自分の気持ちを無視する兄。そんな兄についての悩みを例の男に打ち明けると、男は薄氷殿にこう言ったという。 『そんな兄など殺して、魂を閉じ込めてしまえばいいのです。そうすれば彼は貴方だけの存在になる』  その言葉を真夜中に狂ったように笑って繰り返し叫ぶと、薄氷殿は青龍に零月殿一家の殺人の協力するように命じた。勿論、青龍は応じる訳がない。天将はその気になれば主従の契約を解除できるように御先祖様が特殊な術を施している。青龍は薄氷殿との契約を廃棄しようとすると、薄氷殿の背後から男が出てきた。 『だそうだ。千鶴、こいつの神気を全て奪え』  薄氷殿はそう命じて『千鶴』という男に青龍の神気を奪わせた。本来天将はその程度の外法など大した事はないが、不意打ちで外法を掛けられた故、薄氷が自分との契約を利用して一時期に縛魔の術に応用したせいで反撃出来ないまま、青龍は意識を失ったという。 「……千鶴だと?」  話をずっと黙って聞いていた銀雪の口から、地を這う低い声が零れた。銀雪のただならぬ妖気の揺らぎに龍藍は視線を向ける。銀雪はぎりりと歯を噛んで恨めしげに空を睨んでる。 「銀雪は知っているの?」 「千鶴はな……かつて蒼宮家の下男でお前の祖父母を殺し、氷雨を神社の階段から突き落とした男だ」  龍藍は衝撃のあまり、考えることを放棄しそうになった。祖父母ということは父上の両親。その「千鶴」という男は父にとっては憎い仇であろう。 『仇討ちはお止めなさい。それに……私を死に追いやった者は既に私が殺めました。それに彼と手を組んだであろう薄氷も亡くなったのでしょう』  そして夢の中の父の言葉。もしや……父上は「千鶴」を殺したのだろうか。あの優しい父が憎しみや憎悪を抱く人間には思えないが、事実として父はあの夜に人を殺している。私と銀雪を守るために。 「銀雪、もうその『千鶴』という人は死んでいると思う。父上があの夜に殺めたと夢の中で言ってた」 「氷雨が……!? まさかお前が血を吐いて倒れた時か……」  私が頷くと銀雪は困ったような顔をした。まるで仇討ちが出来なかったと言うように。銀雪は少しの間無言でいたが、苦笑した。 「氷雨の馬鹿……。全部背負いこみやがって」  本当にそうだ。父上はいつも泣き顔など見せずにいつも笑って重荷を隠してきた。そんな父上に出来ることは仇討ちなどではなく、父の分まで生きていくしかない。 「それで、僕が零月の魂を黄泉から保護した時に黄泉の穢れで数年眠らなければならなかったんだ。……その間に、加護を与えていた武家の蒼宮が根絶やしにされてたという訳」  口を挟んだのは龍神。その顔には、いつもの余裕ぶった笑みがない。瞳に宿るのは我が子のように慈愛を注いできた蒼宮家の者を殺した者への憎しみである。 「薄氷の魂は手に入れられなかった。代わりに残滓は保管しているんだけど、誰か覗いてみない? 残滓というか残留思念と言った方がいいだろうけど」  全員の視線の先には水晶の中を泳ぐように移動する青い煙のようなもの。ただ水晶の内面のそこには黒い澱みが蠢いていた。  まるであの泉を水晶に注ぎ入れたようだ。普段であれば、これを覗いてみようなどと思えない。 「私が……」 「いえ、私が覗いてみます」  龍藍殿の声を遮って俺が前に出る。龍藍殿は大きく目を見開くと、少しむっとした顔をした。 「綾人殿、危険かもしれないんですよ。万が一の場合があっては晴彦殿に合わせる顔がありません」 「いいえ。貴方の方こそ危険だ。貴方の様子からして、薄氷殿は貴方を憎んでいたのだろう。もし触れたら貴方の魂が傷つくかもしれません」  こういった残滓の類のものは血が近ければ近いほど、生前の相手からむけられた負の感情が強ければ強いほどに覗いた者の負担が重くなる。ましてや、龍藍殿の龍の血を制御する呪具は叔父上の手元にあって修理中なのだ。今の無防備な彼に任せてはいけない。  自分の意見を変えない二人を見て、龍神は銭を袖から取り出した。 「では、銭投げて決めよう。二人とも表か裏か決めなさい」  龍神がそんな提案をしたので俺は表を選び、龍藍殿は裏を選ぶ。龍神は銭を指で弾くと、銭はくるくると弧を描き龍神の手の中に吸い込まれるように落ちた。龍神が手をゆっくりと開くと銭が露になる。銭は俺が賭けた表となっていた。 「表ということは土御門君だね。はいどうぞ」  龍神から水晶を差し出されてゆっくりと受け取る。水晶が指に触れた途端、邪気に触れた時の苦痛が指に走ったが、呻きを殺して掴む。ゆっくり呼吸をして鼓動を落ち着かせると、水晶の波動に同調していった。視界は徐々に暗くなり、意識が朦朧とし始めた。 「綾人殿……!」  意識が落ちる前、細い腕に抱き抱えられて龍藍殿の雪のように柔らかく冷たい霊力に包まれた。  綾人が目を開けた時、まず見えたのは青い髪の青年であった。美しい顔立ちではあるが表情は暗く、霊力はどこか重い感じがする。この真面目で暗そうな表情は薄氷殿だろう。 「薄氷」  青年は呼ばれて顔を上げると、此処におりますと返事をして声の方に向かう。そこには四十路の男が座っていた。 「薄氷、突然のことで受け入れられないかもしれないが……お前の両親が亡くなった」  薄氷殿は驚きのあまり、声が出ないという様子だったが、顔を俯かせて唇を噛んだ。 「父上……どうしてです。彼方の両親にいったい何が……」 「零月によると、屋敷に仕えていた下男の凶刃に遭ったそうだ。お前も気をつけろ。……それと、葬式に行きたいならば行ってよいが」  薄氷殿は悲しげな顔で首を横に振った。 「いいえ、私は使部として陰陽寮に所属する身。一刻も早く父上のように立派な陰陽師となりたいので行きません。それに……私にとっての両親は父上と母上であって、向こうの両親ではありませぬ。彼方の両親も既に私を子として勘定には入れなかったでしょう」  薄氷の言葉に、四十路の男は目を潤ませているように見えた。薄氷殿は養子であって実子ではない。それでも実父同然で慕ってくれることは、養父としてもこの上ない幸せであろう。 「お前が言うならば、仕方ない。だが物忌みせねばならないので、その間は蔵の書物で勉学するといい。それと零月は悲しみの内にいることだろう。文でも書いて様子を見た方がいい」 「はい」  薄氷殿は深々と頭を下げると、部屋を出ていく。  突然景色が夜の部屋に変わると、自室にいる薄氷殿は零月からの文を読んでいた。おそらく、あの後文を貰ったのだろう。薄氷殿はゆっくりと文を閉じる。 「俺を捨て、兄上と離れ離れにした親の葬式など行くわけがない。ざまあみろ」  薄氷殿は一人呟くと、声を殺して嗤っていた。  場面が切り替わると、薄氷殿は最初よりも大人びた姿になっていた。手には一枚の文。ぐしゃぐしゃに握り潰されているが、辛うじて少しだけ読める。祝言を行うので……私には勿体無い程の………。どうやら祝言の招待の文のようだ。 「兄上……どうして相談なしに……」  めでたい内容の筈なのに、薄氷殿はこの世の終わりかのような顔をしていた。相談も無しにということは、海の彼方の龍の娘と結婚すると決めたのは零月殿なのか。陰陽家としては人外と結婚するのに相談も無しでされるのは困るが、そんな顔をする程なのか。綾人がじっと見ていると、薄氷は暗い目で文を睨んだ。 「兄上……俺には相談も無しに……狐に女とずいぶん色恋が多い方なのですね」  狐に女……? ということは零月殿はまさか銀雪とそういう関係だったのか!? 信じたくない気持ちもあるが、銀雪が腰に差してる刀に何故か人の霊力が混じっているのを見る限り、あれは形見なのだろう。人の刀を差しているということは、それほど特別な関係だったということであり……。綾人が腕を組んで目の前の景色から逸れる考え事をしていると、薄氷はいきなり文を丸めて畳に投げつけた。 「貴方が女に惚気た顔なんか見るものか。兄上……どうして余所見ばかりするのです……。兄上を誰よりも想っているのは俺だと言うのに……」  薄氷殿は苦しげに奥歯を噛んでから、文机に向かって返事の文を書いた。後ろから覗いてみるに、行きたくても貴族である私が行ってしまえば変に目立ってしまいかねないから謙虚な姿勢でお断りするという内容。  きっと祝いたくもないのに「兄上の婚礼を心より祝福しております」と書かれている。文を書き終えてから突っ伏す薄氷に綾人は困惑していた。そうか。   この人は実兄に想いを寄せていたのか。だが零月殿はそれに一切気づいていないと。俺は兄上や妹に家族以上の愛情を抱いていないので理解できないが、何故だか胸が苦しくなった。  次に映るのは、青龍と話している様子の薄氷殿。和やかな雰囲気からするに、微笑ましい話をしていたのだろうか。 「兄上が羨ましいな。俺も早く子を抱き上げたいよ」 「薄氷、そのためには誰かと夫婦にならねば出来ないですよ。貴方には山程縁談の文が届いているので少しは目を通してみてはどうですか」  薄氷殿は苦笑をすると、山となっている縁談の文を一瞥した。 「父上が生きたら決めてくれたんだろうけど、俺には誰が良いか分からなくてね。先延ばしにするよ」  困った人ですねと呆れた顔で言うと、青龍が部屋を出ていく。その足音が聞こえなくなると、薄氷殿は暗い表情になった。 「兄上以外の人間なんて要らないのにどう選べと言うんだ」  澱んだ瞳で呟き、薄氷殿は酒に口を付けた。ごくごくと溺れるように酒を飲む。 「兄上に似ているとはいえ、女の血を引いているんだろうが。忌々しい」  いや。子というものは二人から生まれてくるのだから当然だろう。薄氷殿もそれを自覚しているのか、何を言っているんだ俺と呟いてため息をついた。しばらく薄氷殿は無言で酒を飲み続けたが、突然独り言をぶつぶつと言い出した。 「仕事とは言え、京にわざわざ来てくださった兄上は想像以上に美しくおなりになっていた。ということは甥もあの美しさを受け継ぐのか。……手元に置けば、それをずっと眺めていられる。あの妖狐にも邪魔されず、肌に触れることが出来る」  その小さな声を聞いた瞬間、綾人は皮膚が粟立つ程の戦慄を覚えた。実際、薄氷殿は龍藍殿を幽閉していた。ではこの頃から薄氷殿はその計画を立てていたということであり……。綾人は龍藍が自分が予想する最悪の経験をしていないことを祈るしかなかった。  また視界が切り替わると、薄氷殿が恐ろしい顔で文を小刀で細かく破り捨てている光景が映った。 「紅原__!! 貴様までもが俺の兄上を奪うつもりか……!!」  綾人は、これは叔父と零月が和解の契りとして楓と龍藍の婚姻を結んだ頃かと察した。 「あの死に損ないめ。俺の矢で死ねば良かったのだ。晴子殿に飽きた足らず兄上までもを奪うとは……!」  叔父上と叔母上が駆け落ちした夜、叔父上に重傷を負わせたのは薄氷殿だ。本当に殺意があったのかと、綾人は背筋に寒気を覚える。 「兄上も兄上だ! 親から紅原とは関わらぬようにと口酸っぱく教えられてきたであろうが!! あんな輩を友にするとは兄上は気が狂われてしまったか!!」  薄氷殿は苛立ちを隠す様子もなく、部屋を行ったり来たりしながら暴言を吐き続ける。紅原への憎悪と兄への恨み節。言霊を操る陰陽師というよりも、呪詛を吐く外法師同然だ。それを聞いていた綾人の頭が痛くなって来た頃、ようやく薄氷は立ち止まった。 「そうだ……兄上を正気に戻さなくては……」  文机に向かい文を書き始める薄氷殿。そこには今まであった、自分の心を押し殺しての愛情はなく、大切だった兄を罵る言葉が呪詛のように書き連なっていた。  場面が切り替わって、初めて屋外の光景となった。落ち込む様子の薄氷殿の横に見慣れぬ男が座っている。男は見た目は人の良さそうな気がするが、霊力は穢れを帯びている。隠しているつもりでも、呪詛で人を数えきれぬ程殺しているのだろう霊力の澱み。この男が「千鶴」なのだろうか。 「兄上は何も分かってくれない……。それに武家の方の親族もこれに賛同するものが多い。なあ千鶴、どうすればいい」  千鶴は飲んでいた湯呑みを置くと、腕組みをした。穏やかな微笑を浮かべているが、目は一切笑っていない。 「そうですね……。では兄君を殺して兄君と残った甥を自分の物にすればいいのでは」 「………………は? お前は何を言っているんだ?」  この時の薄氷殿は全く意図してなかったのか、手に持っていた団子を落とす。その一方、未来の結果を知っている綾人は千鶴を睨みつけることしか出来なかった。 「何をって貴方は兄君を自分の物にしたいのではないのですか」 「俺はそんな恐ろしいことなど考えたことはない」  千鶴の問いに薄氷殿は首を横に振った。だが、その瞳は陰鬱を帯びている。 「またそんな顔をして。本当は貴方は兄君を傍に置いて自分以外を見ないようにしたいのでしょう?」 「俺は……そんな……ただ兄上に紅原との交流を止めてほしくて……」  本音を見られぬように目を伏せる薄氷殿。千鶴は薄氷殿にしなだれ掛かると、頬に指を這わせた。 「本当は兄君を自分だけの物にしたいくせに。何を優等生ぶっているのです」  千鶴に顔を覗き込まれた薄氷殿は、固まったように動かなくなった。そんな薄氷殿の唇を指で撫でながら千鶴は続ける。 「安心なさい。殺すといっても肉体を殺すだけですよ。殺してすぐに肉を失った魂を閉じ込めれば魂は貴方の物になる」 「兄上の魂が俺の物に……」  ええと千鶴は嗤った。千鶴の言霊はどこか完備な響きを持っているが、これは目の前の獲物(薄氷)を外道に進ませるためなのか。もし千鶴が常に薄氷殿に対してこのような甘美で罪深い言葉を長い間かけていたのならば、もう毒されていてもおかしくはない。 「兄君と肌を重ねたければ、残った甥君の身体に兄君の魂を入れてしまえばよろしい。そのためには甥君の心を壊すことが必要ですけれど」 「……甥は別に殺してしまっても良いのでは?」  冷えた声音に綾人は全身の血の気が引いた。それとは反対に千鶴はおぞましい笑みを浮かべている。 「いいえ。貴方の兄君は武士なのでしょう。でしたら貴方の兄君は平然と自分の命と犠牲に子を守ろうとする。ですから予備として甥君が必要なのですよ」 「そうか……そうだな……はっ……はは。あはは」  理性の箍が外れ狂ったように嗤う薄氷。それを見つめる千鶴の顔は悪人の顔そのものであった。  だが、この計画が失敗することを綾人は知っている。叔父上が介錯し、零月殿の魂は龍神に保護された。龍藍殿も心を壊してはいない。では薄氷殿はどうなさったの。  場面が切り替わり、十ばかりの銀色の髪の子供を自らが被いている黒い布で抱き抱えて宵闇を走る薄氷を綾人はじっと見つめていた。  山奥の屋敷に幼い龍藍殿を連れ込んだ薄氷殿は龍藍殿の足首に触れながら、おぞましい言霊の何かを呟く。すると、両方の足首に刺青のような紋様が刻まれていった。薄氷殿は龍藍殿の銀色の髪を掴むと忌々しげに舌打ちをする。 「髪があの狐と同じ色になってしまうとは……。まあいい。しかし、千鶴の奴が遅い」  薄氷殿は木の札を懐から取り出す。木の札には千鶴と書かれてあるが、真ん中から真っ直ぐ裂けていた。それを見た薄氷殿の瞳が凍りつく。懐に札を戻すと、溜め息をついた 「……あやつは死んだのか。わざわざあやつが前線に出ずとも良いのに。……もしかして、あやつは兄上を殺したかったのか?」  だが答えるものはいない。薄氷殿は黙りこくると、龍藍殿を見つめていた。  そこから景色は見るに耐えないものだった。ひたすら龍藍殿を折檻し、龍藍殿はずっと泣きながらごめんなさいばかりを言っている。打たれた手足が真っ赤に腫れて痛々しく、綾人は自分の目を覆いたくなった。  そして龍藍殿が15歳程の姿の時、龍藍殿の両手を縛って着物の前を暴いている光景が目に入った。恐怖に怯える龍藍殿の顔と、表情の無い薄氷殿。これ以上見たくないと思った時、不幸中の幸いか景色が変わった。  それは青龍が封じられていた穢れで澱んだ泉の前に座る薄氷殿。手には何かの小さい壺がある。それの封を開けると、泉に中身を流し込んでいった。それを目にした綾人は思わず口元を覆う。液体の正体はどろどろに溶け込んだ人の魂。恐らく………他の蒼宮家の者達であろう。 「これは兄上の魂を横取りした龍神への見せつけであり、兄上の墓参りもせず、のうのうと生きたお前らへの罰だ」  薄氷殿は静かに呟くと、泉を立ち去る。まさか……澱みは成仏させられなかった蒼宮の人々の魂が怨念と化したものか。考えるだけで背筋が寒くなった。  また景色が切り替わると、薄氷殿の腕の中には赤子の姿があった。傍には顔に布を掛かった女性と思われる人の亡骸。確か薄氷殿は長年子に恵まれなかったが、ようやく子を得た。しかし正妻殿は子を産んですぐに見罷られたと聞く。ではその光景か。涙の跡が鮮やかに残る薄氷殿の顔。それは甥に長きに渡り折檻した者とは別人のようであった。 「俺は……なんと愚かだったのだろう」  薄氷殿の頬から新たに涙が落ちる。その光景が最後だったのか、綾人の目の前は真っ暗になった。

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