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二人きりの夜

彼の心を覗いてしまった気がした  綾人が目覚めると、銀と青の光がぼんやりと見える。 「綾人殿、お気づきになられましたか」 「龍藍殿……? 私はいつの間に……」  意識がはっきりとしてきた綾人は起き上がる。途端に頭痛がして顔をしかめた。 「綾人殿、大丈夫ですか。今、怨念を祓いますのでじっとしててください」  龍藍殿は俺の額に触れると祝詞を唱え始める。聞き覚えのない祝詞であるが、聞いてる内に頭痛が和らいでいく。だが龍藍殿の細くしなやかで少し冷たい指が自分の額に触れる感触で胸が早鐘を打った。 「綾人殿? 顔が赤くなっているようですが、大丈夫ですか」 「いえ、頭痛は癒えたので大丈夫。これはその……何でもないですから」  熱くなった頬を隠すように口元を覆う綾人に龍藍は湯呑みを差し出した。 「喉が渇いているでしょう? 白湯をどうぞ」 「え? あ、ああ。ありがとうございます」  白湯を受け取って飲むと、心が落ち着きを取り戻した。それにしても此処の水美味しいな。兄上や妹に飲ませたいな。白湯を飲み終えると、綾人は少し暗い顔をしている龍藍に気がついた。 「龍藍殿、やはり薄氷殿のことが気になるのですか」 「はい。…………苦手であまり好きでない叔父でした。それでも、彼がどうしてあんなことをしたのか気になるのです。綾人殿、教えて頂けませんか」  一番に知る権利があるのは龍藍殿だ。だが龍藍が折檻を受けていたり、着物の前を暴かれていたことを思い出して綾人の胸が痛くなる。それにあんな過去など知らぬが仏であるに決まっている。 「…………分かりました。お話しします」  龍藍の瞳を見ていると拒否権など無いと綾人は悟り、話し始めた。  綾人からあの水晶から見た薄氷の話を聞き終えると、龍藍は憂いを帯びた眼差しで下を向いた。 「叔父は父にそのような想いを持っていたから、あんなことをしてしまったのですね」  怒りや憎しみよりも哀れみが感じられる声音。自分の父を殺して自分を閉じ込めた相手に向ける感情にしては優しすぎる。 「龍藍殿は薄氷殿が憎くないのですか?」 「憎くないと言えば嘘になるでしょう。ですがそれを行動に移そうなどと思いません。父は私に『幸せに生きなさい』と言いました。幸せに生きるのならば、憎しみも復讐も不要な物です」  綾人の質問に龍藍が静かに返した。龍藍殿のお父上は今は神域の最も清浄な場所で眠っておられる。 自分の命を賭けて龍藍殿と銀雪殿を守ったというのだから、その愛情は山より高く海より深い御仁だろう。 「龍藍殿はお父上が大好きなんですね」 「ええ……。父は優しくて暖かい人でした。今でも父が死ぬ前の優しい日々に戻りたいと思うことがあるのです」  龍藍殿は泣きそうな顔で微笑を浮かべる。この人は親からの愛情を一身に受けていたのだ。そんな人にとって、大好きな父の死と折檻の日々は耐え難い物だっただろう。 「あの……その……もう痛いところはありませんか……?」  綾人はあの折檻のことについて直接質問するのではなく、遠回しにすることにした。だが、適切な言葉が見つからず、辿々しい物言いになってしまう。龍藍は軽く目を見開くと、安心させるように笑みを作った。 「痛いところは無いですよ。この身に流れる母の血のお陰で傷の治りは早かったですから。あっ、綾人殿。母の血のことは内緒にしてくださいね。誰にも言うなと銀雪や父に言われておりましたから」 「勿論ですよ。二人だけの内緒です」  口元に人差し指を置く龍藍殿の真似をすると、龍藍はふふっと笑う。それにつられて綾人も笑みを浮かべる。互いに共通の秘密を持った故か、互いに他愛もない話で打ち解けた。 「龍藍殿、折角ですので酒を飲みませんか」 「酒ですか? 儀式用の御神酒を少量飲んだことしかございませんがお付き合いしましょう」  龍藍殿は誰かと酒を飲むのは初めてなのか、そわそわしながら頷く。綾人は龍神から分けてもらった酒を引っ張り出してきて、二人で酒を飲むことした。  龍の子なのだから酒に強いだろう。そう予想していたが、意外にも予想は外れたようだった。徳利一本分で龍藍殿の頬が薄紅色に染まる。表情の方も酒が入ったせいか、ふにゃりと無防備な笑みを浮かべていた。 「玻璃野にも甘味処はあるんですけど、京の甘味処は沢山あるんですねえ」 「ええ、中でもおすすめの甘味処があるのです。戻ったら是非行きましょう」  俺の家は何故か男でも甘味好きが多いし、俺も家で勉学をやっている最中は菓子をつままないとやっていけないほどである。兄弟で甘味処に訪れたことはあるが、こうやって誰かを誘うのは初めてだ。綾人は龍藍と一緒に馴染みの甘味処に行くのを想像してにやけそうになった。ふと龍藍の傍に目を遣ると、笛が置かれていることに気づく。近くで見てみると、漆で塗装がされており、青く美しい紋様が描かれていた。 「龍藍殿の笛の音は見事でしたが、どこで教わったのです?」  酔いでふわふわとしていた表情が少し醒めると、龍藍はそっと笛を手に取った。 「ああ、これですね。父が生きていた頃によく笛を奏でていて、その吹き方を教わったのです。貴方に見られてしまった夜に吹いたのはその曲です。泉で吹いたのは、蒼宮家に伝わる曲ですね。と言っても、古い書物にあった物を自分なりに吹いたものですが。十年間は叔父が約七日に一度程来る以外は暇でしたので、陰陽道の勉学以外では笛ばかり吹いていました」  山奥の木の上で月の光に照らされた彼が笛を吹く姿が目に浮かぶようだ。あの時、あんな美しくも悲しい音色だったのは、彼が亡き父を思い出して吹いていたのかもしれない。 「龍藍殿、あの夜の曲をお聞かせ願いたいのですが、よろしいでしょうか」  龍藍殿はほんの少し驚いた様子だったが、すぐに微笑んで頷いた。 「ええ。綾人殿がそう仰るのならば、喜んで奏でましょう」  龍藍殿は笛を唇に寄せると、吹き始めた。俺はそれに浸っていたくて目を閉じる。あの夜と同じ美しい音色。だが、少しばかり悲痛さが和らいでいる気がする。胸を裂かんばかりの悲しみが薄れているのは、彼の心境に変化があったのだろうか。  彼にとってここ数日は嬉しいことも多かっただろう。それが要因だとは思うが、こう思ってしまう。彼の悲しみを和らげた要因にほんの少しでも自分の影響があったらいいなと。 「龍藍殿、ありがとうございました。本当に良い音色です……って龍藍殿!?」  俺が目を見開くと、龍藍殿の身体が此方に倒れてきた。慌てて身体を支えると、線の細い身体が俺の腕の中にあって心の臓が早鐘を打つ。すっごく良い香りがする……。いや、それどころではない!! 俺は龍藍殿の顔を覗き込むと、酔いが完全に回ったようで龍藍殿はぼんやりとした顔になっている。 「大丈夫ですか、龍藍殿」 「すみません……あやとどの……なんか……ふわふわしてしまって……」  声音が幼子のように可愛らしい。けれども男に対してかわいいと言うのは失礼なのではないか。綾人が黙ったまま龍藍を見下ろしていると、龍藍が首をかしげた。 「あやとどの、どうなさいました?」 「いえ……龍藍殿。もう寝ましょうか。運びますので掴まってくださいね」  龍藍はこくりと頷くと綾人の首に腕を回した。龍藍の花のような淡い匂い袋か何かの香りが鼻腔を擽り、綾人の鼓動が早くなった。  龍藍殿の寝床は銀雪と同じ部屋なのでこの様子を見られれば、殺されかねない。綾人が慎重に部屋に入ると、幸運にも銀雪は影縄殿や青龍と話をしているのか部屋にいなかった。敷かれた蓐にそっと下ろすと、まだ龍藍殿は俺の首から腕を離さなかった。 「龍藍殿、布団に着きましたよ。ですので離していただけませんか」  龍藍殿はゆっくり離したのでそのまま寝かせようとしたら、龍藍殿が両手で俺の頬に触れた。 「龍藍殿、如何なさいましたか。私の頬に何か……っ」  顔が近づいたかと思ったその時、唇に温かい感触が触れる。俺は何も考えられず、金縛りされたように固まった。 「あやとどの……あなたにすきといわれてうれしかったんです。ぼくのうまれもこのかおのきずも、ひととはちがうのですから」  龍藍は綾人の腕に身体を委ねて続ける。 「でもあなたのきもちにこたえをだせないままなのです。それでもこれだけはいえます。…………あなたといっしょにいたいですし、あなたをうしないたくない」  言い終えた龍藍はすうすうと寝息を立てて目を瞑った。綾人は無言で龍藍を寝かせて布団を掛けると、ふらふらと部屋を出た。自室に戻って見れば、口元を覆っていた指の上に血がべっとり着いている。何だこれはと確認したら、どうやら鼻血を出してしまったようだ。  綾人は懐紙で手を拭いて鼻を塞ぐ。そして言葉に表せない気持ちをどうにかしたくて、一人部屋で悶絶していた。  影縄や青龍と話をしていた銀雪が戻ってくると、子供の頃のようにすうすうと寝息立てている龍藍が寝ていた。龍藍の頭をぽんぽんと撫でると、柔らかい髪の感触が指に絡まる。 「もうすぐ京に戻らなければなあ」  此処を離れるのは名残惜しい。此処は氷雨の魂が眠っている場所だからであろうか。彼がいつ罪の浄化が終わって生まれ変わるか分からない。正直に言えば、夢で彼と出会えた龍藍が羨ましかった。手に触れ、唇に触れ、肌を重ねたい。だけどもそれを願うのはあまりにも欲張りだから、我慢するしかない。ただ……会いたい。 「氷雨……」  ぽたりと温かい雫が龍藍の頬に落ちる。銀雪はそっとそれを拭うと龍藍の横で眠ることにした。 「銀雪」  気がつくと誰かが俺の顔を覗き込んでおり、俺はその誰かの膝を枕にしているようだ。俺は相手が分かると、すぐに飛び起きた。  「氷雨っ!? お前どうして……。眠らなければならないのではないか!?」 「ええ……まあそうですけど……。龍神様に銀雪にも会いたいと言ったら夢の中なら少しくらいは構わないと仰いました」  大人しいようでいて、中々我儘な部分があるものだ。銀雪は泣くのを堪えて氷雨を抱き締めた。 「数ヶ月前に会ったばかりだというのにな………会いたかった。会いたくて苦しかった」 「私も貴方と離れる時間が辛かったです。何とか我慢出来てた筈なんですが、夕霧に会ってからますます貴方と会いたくなってしまった」  抱き締めるぬくもりは生前と同じ。互いに見つめ合うと、触れ合うばかりの口づけを交わした。 「情交は駄目だそうですよ。だから、代わりに強く抱き締めてください。そして、貴方が見聞きしたことを教えてください」 「勿論だとも」  銀雪は氷雨を抱き締めたまま、龍藍と共に経験した出来事を話す。この一時の夢が醒めないでくれと願ってしまう程、幸せで泣いてしまいそうな夢であった。  龍藍が目覚めると、何故だか上機嫌な銀雪が布団を畳んでいた。 「銀雪、おはよう……。何か良いことでもあった?」 「まあなー。とても良い夢を見たんだ」  とても良い夢? まさか私の時のようにまた父上が夢に会いに来たとか? 銀雪の目に時折あった憂いが無くなっているのを見るにそれしか考えられない。  「銀雪、良かったね」 「ありがとうな。本当に良い夢を見た。ところで、昨夜は少し酒臭かったがお前は酒でも飲んだのか」 「うん、夜中に目覚めた綾人殿と飲んだよ。私は母の血を受け継いでるからお酒は強いと思ったけどすぐにふわふわして寝ちゃったんだよね。綾人殿に運んでもらったみたいだけど」  すると銀雪の顔が青ざめていく。私の両肩を掴むと尋ねてきた。 「変なところはないか!? 尻や腰が痛いとかそういうのはないか!?」 「え……? 何でお尻? 別に何も無いけど。銀雪は変なことを言うなあ」  何をどうすれば尻が痛くなるんだ。酔っぱらって岩に尻餅をついたとかそういうことでも言っているのか? 私が正直に答えると、銀雪はほっと息をついて良かったと何度も呟いた。  朝食の席に着くと、綾人殿の目の下にうっすらと隈がある。 「綾人殿、寝不足のようですが何かございましたか」  綾人殿はぼんやりと箸を運んでいたが、私の声にびくりと大きく身体が跳ねた。 「りょ……龍藍殿。心配かけてすみません。昨夜眠れなくて……」  昨夜何か失礼なことをしてしまったのか。気になって問えば綾人殿は首を横に振った。 「貴方とお話した一時は楽しかったですよ。ただ眠れなかったのは……少し……私の未熟故です。食べ終わったら少し寝させて頂きますので、話し合いはその後でよろしいですか」 「はい、勿論ですよ」  快諾したが、本当に何があったのだろうか。確か笛を披露した後にふらついてそれで……。思い出せそうで思い出せない記憶。何か不快になることをやらかしていなければ良いのだがと心の中で祈った。

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