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翳る空

穏やかな時は長く続かず  十二天将と契約を結ぶのは土御門と契約する十二天将に認められた術師であるが、十二天将の本当の主があの安倍晴明であることを忘れてはいけない。 「綾人は此方に帰ってくる前にとんでもないことをしでかしたものだね。まあ私は別に良いけどさ」 「……父はとうに知っております。一柱の契約は他の天将にも伝わりますから」  何だかんだ嬉しそうな晴明に対し、晴彦は沈んだ表情をしている。一切酒が減らない晴彦の盃を一瞥しながら、晴明は酒を一口飲んだ。 「その様子じゃ、泰明は良からぬことでも考えているのかな」 「まあ………そのようなところです。綾人はどうして勝手なことを」 「勝手なことと捉えるか、自分の意志で選んだ行動と捉えるかだよ。あの子、何だかんだ君や両親の言うことに従って、逆らったことなど無いだろ?」  言われてみれば、綾人は私や父の言いつけに不満を漏らせど、ずっと従ってきた。…………あの子が自分からあれをやりたいこれをしたいと言ったことがここ数年あっただろうか。思い出そうとしても思いつくのは十より前の年齢の頃である。 「それに青龍が認めたということは、龍藍君が信用に足りる人物ということだよ」 「ですけど、父上は龍藍殿の素性を疑っています。綾人だけでなく、龍藍君を罰するかもしれません」  言葉を連ねる内にどんどん表情が沈んでいく晴彦の肩に温かい手がそっと置かれる。 「晴彦、龍藍君に青龍を預けて良いと判断した弟と、龍藍君を知らない内から疑う父親のどちらを信じるかい」 「まだ………選べません。考えさせてください」  晴彦は思い詰めた表情で俯く。……父上も綾人もどっちもかけがえのない存在。どちらも信じたいがどうすればいいんだ。答えの出せないまま、夜は過ぎていく。  その頃、玻璃野から京へ向かう龍藍一行は穏やかに過ごしつつも、警戒を怠らなかった。銀雪との契約は父上が生前の頃に譲渡されていたので、実感は数ヶ月であれど実際は10年にもなる。それ故、身体に馴染んではいるが、銀雪と違い青龍との契約を結んで日が浅い。なので負担も多く、移動中は青龍に隠行してもらい神気の消耗を抑えてもらっている状態である。 「龍藍殿、お昼になりますし少し休みませんか」 「ええ。そうですね」  宿の方に作って頂いた昼食の包みを開く。握り飯が3つと沢庵などの漬け物が添えてあった。 「こうやって山でみんなで握り飯を食べるって貴重な体験ですね……」  握り飯を美味しそうに噛み締めて綾人殿は呟く。さして豪華な食事ではない。それでも綾人殿の言いたいことは分かるような気がした。 「貴族も武士も町人程、移動が容易ではありませんしね。……本当に貴重な機会です」  握り飯は単純な味つけなのに美味しく、小鳥の鳴き声と川のせせらぎが耳に心地よい。幽閉時代も握り飯を食べ、似たような空間にいたのにこれ程美味しく感じたことはなかった。美味しいと思えるのはやはり共に食べる相手がいるからであろうか。そういえば綾人殿、一人で食べるのが苦手だと仰っていたな。あれはそういうことだったのかと今さら気づいた。 「龍藍、どうした? 腹がまだ空いているなら、握り飯一つやるが」  私がいつの間にか神妙な表情をしていたのか、銀雪は心配気な顔で見つめてる。 「大丈夫だよ。私も皆と食べれて幸せだなあと思っただけ」 「そうか」  銀雪はただ目を細めて笑みを浮かべた。  数日かかって京に着く。久しぶりに見る京は相も変わらず賑やかだ。翠雨はどうしているだろうか。気になって足が自然と早歩きとなった。 「蒼宮の幼子の顔を遠巻きにしか見なかったから記憶が曖昧ですが、もうあの幼子は大きくなっているでしょうか」 「そうでしょうね。…………私のことなど忘れているかもしれません」  何せ、過ごした時間は一月以下である。物心もつかない幼子が覚えていられようか。 「や……そうかもしれないが、あの子供は貴方に懐いてると屋敷の者が言ってたし、忘れていてもすぐに懐くと思います」  綾人殿が必死に励ましてくれているのが手に取るように伝わる。それが微笑ましくてふふっと笑ってしまいそうになった。 「ありがとうございます。綾人殿、家に帰ったら一緒にあの子に会ってくれませんか」 「よろしいのですか」 「はい」  あの時は、綾人殿を警戒して睡蓮殿に翠雨を近づけさせないようにお願いしていた。しかし綾人殿はもう友だ。翠雨に私の友を紹介したい。 「分かりました。是非会わせてください」  綾人殿は心の底から嬉しそうに無垢な笑みを浮かべた。  蒼宮邸に着くまでの道中は襲われずに済んだが、さて屋敷の中はどうだろう。警戒しながら戸を叩いて名を告げる。 「えっ!? りょうらん!? 睡蓮様が仰ってたけど本当に帰ってきたのか!」 「帰ってきましたよ。戸を開けてくださいな」 「待ってろ、今開けるから」  内側からごそごそ音がすると、戸が開けられる。風太は育ち盛りだからか、ほんの少しだけ背が伸びていた。 「お前が帰ってこないから、睡蓮様は心配してたんだぞ。良いから早く入れ」  言われるままに入って草履を脱いでいると、女性の足音が近づいてくる。振り返ると、睡蓮殿が立っていた。 「皆様方、無事のご帰還をお祝い申し上げます。…………遅うございましたので、心配しておりました」  厳しく表情があまり変化しない睡蓮殿。だが今は少しだけ目元が泣き腫らしたように赤くなっている。 「申し訳ございません。そして、ただいま戻りました」  龍藍は、ただいまと言える場所があることの喜びを静かに噛み締めた。  夕食には時間はまだある。龍藍達は手拭いで汗を拭き、着替えてから睡蓮に今までの経緯を話すことにした。睡蓮は話を聞き終えると、険しい表情で口を開いた。 「我々にとって、先代様はお優しい方でした。そのような御方がそんな残忍なことをしでかし、青龍様に酷い仕打ちをなさったなどにわかには信じられませぬ。ですが………先代様はお亡くなりになる前、ずっと嘆いておられました。今は推測することしか出来ませぬが、先代様はその所業を悔いておられたのやもしれませぬね」  あの人にも嘆く心はあった。銀雪を庇った私の胸を穿ち、父を亡き者にしたことは許せることではない。だが、それを単純に憎むことなどしたくない。 「過ぎたことは今やり直せるものではないし、死人に罪の所業を追求することは出来ない。それは黄泉で審判されることだからな。しかし、青龍はこうして無事に助け出したし、当代を支える龍藍殿がいる。これからを考えていくことが重要であろうよ」  残留思念で叔父上の所業を見てきた筈の綾人殿は、私が考えていることと同じことを口にした。綾人殿の言う通り、私が翠雨を支えていかねばならない。あの子は大切な従兄弟なのだから。 「ところで、翠雨様はどちらにいらっしゃいますか」 「翠雨様は風太が面倒を見ておりますよ。風太、翠雨様を連れて来なさい」  はーいという返事と共に軽やかな足音が近づく。風太の腕の中には少し大きくなったあの幼子。風太は私の元に寄ると、翠雨様を下ろした。 「りーあー!」  私の顔を見るなり、翠雨はぱあっと花が開いたように笑う。その笑みに、思わず目頭が熱くなった。  翠雨様はきゃっきゃと嬉しそうな声を上げ、私の方に手を伸ばしてゆっくりと歩く。もう一人で歩けるようになったのか。親でもないのに感動のあまり、涙が出そうになる。翠雨様が私の膝に手をついてから、そっと翠雨様を抱き上げた。 「翠雨様。龍藍、ただいま戻りました」  子供というのは温かい。無垢な笑顔に疲れが消えていくようだ。何度も「りーあー」と私を呼んでくれるこの子供を守っていこう。翠雨様の頭を撫でながら誓う。 「その子は『翠雨』という名前なのですね」  自分の後ろに座っていた青龍が呟く。そういえば、翠雨はいつか青龍の主となる日が来るのか。せっかくの機会だからと青龍を手招きする。 「青龍、翠雨様を抱き上げてくれませんか」 「よろしいのですか? 私はあまり赤子を抱き上げた経験が無いのですが」 「大丈夫ですよ。翠雨様はもう首はすわっていますし」 「では……お言葉に甘えて」  そっと翠雨様を青龍に渡す。青龍はぎこちない手つきであるが、壊れ物を扱うようにそっと翠雨様を抱き締めた。翠雨様はしばし私と青龍を交互に見ていたが、やがて青龍に無垢な笑顔を向けた。 「…………本当に可愛らしい」  起き上がってから今まで笑うことのなかった青龍が、初めて穏やかな笑みを浮かべる。私以上に叔父上の子である翠雨に思うところはあるだろう。そんな不安があったが、青龍の顔を見て杞憂であったとすぐに悟った。  青龍はしばらく翠雨様を抱いていたが、やがて私に翠雨様を返す。そういえば約束をしていたことを思いだし、綾人殿に声を掛けた。 「綾人殿、貴方も翠雨を抱き上げてみませんか」 「えっ!? 良いのですか!?」  ぼんやり翠雨様を見ていた綾人様は、突然名を呼ばれてびくりと身体を震わせた。 「翠雨に会わせるという約束をしていたでしょう。幼子にとってそんなに遠い距離だと会ったことにならないのでは」 「いや……しかし………俺、全然赤子を腕に抱いたことなどありませんし」 「やり方は俺が教えよう。龍藍、綾人のところまで翠雨を連れてこい」  銀雪は綾人殿に子供の抱き上げ方を教えている。綾人殿が見よう見まねで腕を動かす様が可愛らしくて頬が緩んでしまいそうになりながら、翠雨様を綾人殿の傍に連れていった。 「翠雨様、此方が私の友人であり、土御門のご子息である綾人様ですよ」 「わっ……と………」  翠雨様は最初、ぎこちない綾人殿の手付きに不安を感じていたようで、少しぐずりそうな顔をしていたものの、暴れることなく綾人殿の腕の中に収まった。 「あの……翠雨……殿。初めまして、俺が綾人だ」  翠雨様にのつぶらな瞳に凝視されて、綾人殿はぎこちなく挨拶をする。翠雨様はしばらくの間綾人殿を無言で見上げていたが、やがて口を開けた。 「あーとー?」  首を傾げて名を呼ぶ翠雨様に、綾人殿は呼吸をするのも忘れたように瞠目していた。まさか自分の名前を呼ばれるとは思わなかったのだろう。綾人殿の目にじわじわと涙が溜まっていく。 「ああ、綾人だ。まさかこんなすぐに俺の名前を呼んでくれるとは……」  綾人殿が翠雨様の髪を撫でると、翠雨様は嬉しそうな声を上げている。いつしか翠雨を抱き抱える綾人殿の顔も幸せそうに綻んでいった。  本当にこの子供は人見知りをせずに、いつも周りの者達の心を和ませてくれる。この子を守るつもりが、いつの間にかこの子に救われていたのだ。この子を守る為にも無事に陰陽寮に入れれば良いのだが………何やら背筋に寒気がするほどの嫌な予感がするのは一体……。龍藍の表情が翳るのを銀雪だけが見ていた。  夕食の時間となり、夕食を食べ終えてから綾人殿とこれからのことを相談することにした。 「明日になってから私は実家の方に一度帰宅します。その間、龍藍殿は此処で待機していてください」 「ですがそれでは綾人殿が危ないのでは。やはり一緒に行った方が良いと思います」  綾人殿の家だとしても、綾人殿は私の味方の立場にある。どうせ危険であるならば、傍にいた方が彼を守れる。 「いいえ。陰陽師達が狙うのは貴方かもしれないのです。此処の結界は頑丈だ。誰もそう容易く入ることは敵わないでしょう。ですので此処で待っていてください」  待っているだけなんてしたくない。だが、道理を理解出来ぬ訳でもないので渋々頷いた。 「分かりました。必ず戻ってきてくださいね」 「分かって頂けて何よりです。龍藍殿、必ず戻ってきますよ」  綾人殿は気丈に笑って振る舞うが、いつもよりもぎこちなく映る。大丈夫なのだろうか。不安に思っていると、突然水晶が砕けるような音がした。 「……龍藍殿!!」  綾人殿はいきなり立ち上がると、私に向かって走り出す。 「えっ………!?」  何が何だか分からぬまま、あっという間に綾人殿に押し倒される。綾人殿は何がしたいんだ!? 「綾人殿………っ………!?」  問おうとした瞬間、まるで矢の雨が降るような大量の鋭い音が耳に響いた。 「っ………! うっ……ぐ………」  私の頭上にある綾人殿の顔が苦痛に歪む。一体何が起こっているのだ。龍藍は恐怖のあまり、動くことが出来なかった。  大量の鋭い音が止むと、綾人殿はぐらりと横に倒れる。綾人殿の肩や足には霊力で作られたであろう透明な矢が突き刺さっており、衣が血に染まっていた。 「綾人殿、どうなされたのですか!?」 「父が……結界を……っ……」  痛みに呻きながら答える綾人殿。急所には刺さっていないのが不幸中の幸い。同じく部屋にいた銀雪は身体のあちこちが血にまみれており、憎々しげに塀の方を見つめていた。 「銀雪、大丈夫!?」  銀雪はああと此方を向かないまま答える。その手は既に鯉口を切っていた。 「俺は大丈夫。それよりも青龍と翠雨達の安否を確かめろ」 「う、うん」  青龍は現在翠雨様の部屋に待機させている。青龍がいるから大丈夫だとは思いたいが………。念話で尋ねると、無事という返答が帰ってきた。 『結界が砕けるのは確認できましたが、その後に音がしただけで此方は何もございません。今すぐ貴方の元に駆けつけようと思ったのですが、翠雨を置いて行きますと危険な気がして………。何かあったのですか』  どうやら襲撃を受けたのは私達だけのようだ。青龍と翠雨達が無事だとはいえ、翠雨から青龍を離すのだけはかなり危険な選択であろう。 『事情は後で話します。青龍は翠雨様達を守ってください』  青龍がまだ何かを言っていたが、ここで念話を中断する。そして龍藍は塀から飛び降りる影を睨んだ。年は三十路に見えるが、実際はもっと年かさであろう男。美しい顔は剣呑さを帯びており、狩衣が霊力で靡いている。 「随分と手荒い迎えですね……父上」 「お前こそ随分と情けない姿だな。綾人」  綾人殿のお父上こと泰明殿は、冷たい表情で綾人殿を見据えていた。その後、私に氷の視線が向けられる 「俺の子を誑かしたのは貴様か。一体どんな邪道を用いたのか、龍の子よ」  どこまでも冷たいその視線に貫かれ、喉元に刀を突きつけられた心地がした。 「誑かした覚えなどありませぬ。互いに言葉を交わして友とはなりましたが」  声が震えぬように声を張り上げて答える。そうだ。誑かしてなどいない。第一印象こそ悪かったが、彼は私のことを信用してくれた。彼の想いに答えられない私の友になってくれた。恋心は持っていないが、それでも彼はかけがえの無い私の友なのだ。 「友だと? たかが友の為に、綾人が無断で行動を取るとでも思ったのか?」  泰明殿はゆっくりと近づいてくる。一歩一歩と歩む音がどこまでも恐ろしく、背筋が凍りつく。 「綾人。今一度聞く。何故、晴彦や私の許しも得ずにそこの小僧と十二天将の契約を執り行った。それがどれだけ身勝手なことだと自覚しているのか」  霊力で作られた矢が消えると、綾人殿は起き上がって泰明殿を鋭い目で見返した。 「自覚していますよ。ですが、龍藍殿を信じて守りたいから執り行いました。もし龍藍殿が青龍と契約していなければ、父上はすぐにでも龍藍殿を幽閉するでしょうから。でも……俺の見立てが甘かったようだ。まさか単身で乗り込んでくるとは……」  こうしている間にも綾人殿の衣は血に染まっていく。止血しなければと思うが、泰明殿の霊力の圧が動くことを許さない。 「貴人や天后の手など煩わせる必要はない。私一人で十分だ」  泰明殿は家屋に入る一歩手前で止まると、呪符を懐から取り出した。 「龍の子よ。貴様が自ら此方に来るならば綾人やそこの妖狐を傷つけない。だが…………言わなくても理解できるか?」  泰明殿の目的は自分だ。戦う覚悟は出来ているが、ここは蒼宮の屋敷。此処で戦えば皆が巻き添えになる上…………勝算があるとは言い難い。龍藍は袖の下で構えていた印を解いた。   「………承知いたしました。ですが、その前に綾人殿と銀雪の治癒を行わせてください。但し、それも許されぬと仰るのでしたら、貴方に従いませぬ」  すると威圧を放っていた泰明殿の霊力がふつりと止んだ。 「良かろう。それが終わり次第、我が元に来い」  案外話を聞いてくれる人だ。龍藍は安堵すると、綾人の傍に膝を着いた。 「綾人殿。すぐに痛くなくなりますから、安心してください」  相手の怪我を癒す術は、晴子殿や紅原殿に教えていただいたので覚えている。私が術を唱えようとすると、綾人殿が私の腕を掴んだ。 「駄目です。龍藍……殿……。俺は貴方を守りたい……。貴方と離れたくない……」  震える指や泣きそうな瞳は痛みのせいだ。きっとそうに違いない。私は綾人殿と目が合わないようにした。 「大丈夫ですよ。心配してくださってありがとうございます。私は平気ですから」  尚も何かを言いたそうな綾人殿を叔父上から教わった呪で指一本も動けなくして治癒をする。綾人殿の身体は僅かな痣を残して癒えたので龍藍はほっと息を吐いてから銀雪の方を向いた。 「龍藍…………お前はどうして………」  言いたいことは分かっている。ごめんなさい。私はやはり父の子なのだ。綾人殿以上に動けなくなった銀雪に治癒の術を施す龍藍の瞳は震えていた。 「…………銀雪、ごめん。それでも僕は大切な人達の為ならこの命は惜しくない」  銀雪はこれまでに無いほど目を見開く。完全に癒えた銀雪に背を向け龍藍は泰明の元に歩みだす。銀雪は龍藍のその背中に自分を庇って矢を受けた幼い夕霧を重ねてしまった。 「龍藍待て____!!」  銀雪は龍藍の名を咆哮する。だが龍藍は振り返ることなく、泰明と共に闇に姿を消した。  泰明と龍藍の気配が消えた途端、ふつりと銀雪と綾人に掛けられた金縛りが解けた。悔しげに畳を拳で叩く銀雪の横で綾人は気持ちを整理出来ないでいた。初めて父に傷つけられたばかりではなく、惚れている相手である龍藍を奪われたのだ。悲しみと悔しさが胸に押し寄せ、ぱたぱたと熱い雫が落ちる。二人は守りたかった存在に逆に守られてしまった事実に打ちひしがれる。二人だけの無言の間が続く部屋に翠雨を抱えた青龍が入ってきた。 「何があったのですか!? ……龍藍は何処だ!?」 「…………泰明が連れていった。目的は分からない」  銀雪が抑揚の無い声で答えると、青龍は驚きのあまり言葉を失った。それもその筈。土御門当主が突然乗り込んで連れ去るなどという蛮行を致すとは考えられない。青龍は綾人の血塗れの衣を見た途端、顔が青ざめた。 「龍藍の為だけに泰明が貴方を傷つけたのか」  綾人は分からないとしか答えられなかった。一度も父に手を上げられたことはなかった。それなのに折檻を通り越して、霊力の矢で貫かれるという下手をすれば死ぬようなことをされるとは思わなかったのだ。現実が易々と覚悟を上回ってきた。 「俺は……どうすればいいんだ」  父上や兄にも敵わぬ霊力と技量。自分が彼らから龍藍殿を奪える勝ち目は全く無い。綾人は己の無力さを痛感するしかなかった。  一方、土御門の屋敷に連れてこられた龍藍は座敷牢らしき場所に入れられた。両手には霊力を使えなくする手枷が嵌められており、部屋の角で考え事をする。牢から部屋に降る月の光は母が居なくなった夜と同じく冷たい。 「母上………」  せめて自由な内に貴女に会いたかった。その願いなど口にしては泣いてしまいそうなので、代わりに両親が歌ってくれた子守唄を慰めに口ずさむ。 「とても綺麗な歌声ですね。もしかして歌っているのは貴方?」  突然の少女の声に顔をあげる。いつに間にか、綾人殿に雰囲気の良く似た貴族の娘が立っていた。

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