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異端なる者 其の弍

 晴彦と綾人は互いを大事な兄弟だと思っている。だからこそ、このような大喧嘩は生まれて初めての体験であった。  相手が片膝を着くまで呪術で互いに傷つけ合う。綾人は烏帽子などする暇が無かったので後ろ髪を軽く揺った程度であったが、もうすでに髪が解けている。それに衣は何ヵ所も裂けており、傷だらけだ。対する晴彦も、被っていた烏帽子が落ち、同じくらい傷だらけ。晴彦より劣ると言われていた綾人であったが、晴彦と同程度にしか消耗してなかった。  普段の兄上なら俺を圧倒していた筈。それなのに兄上がこんな状態なのは、兄上に迷いがあるからかもしれない。 「兄上、何を迷っておいでなのです。容赦しないと仰ったのは兄上でしょう」 「迷ってなどいません。綾人、そろそろ限界でしょう? 早く降参なさい」  俺も兄上もぜいぜいと肩で息をしている状態。もうそろそろ大丈夫か。俺は懐から呪符を取り出すと、兄に投げつける。呪符は兄上の目の前で強い光を放ち、目眩ましとなる。 「甘い!」  兄上は対策をしていたようで、すぐさま印を組んで術を唱えると、俺に向かって大量の光の矢が降り掛かってくる。俺は重傷にならない程度にそれを受けると、小刀を鞘から抜く。それが龍神への合図。 『よく頑張った』  龍神の声が頭に響いたと思うと、龍神の放ったであろう雷が邸に直撃し結界が破られた。閃光と轟音が辺りを包み込み綾人は目を閉じる。雷が止んで目を開けると、門の上から落ちる人影が見えた。 「青龍、兄上を!」  隠行を解いた青龍が、地面に叩きつけられる寸前の兄上を受け止める。兄上は大丈夫だろうか。恐る恐る近づいてみると、兄上は目を瞑ってはいたが胸が微かに上下している。 「気絶しているだけだ。私は晴彦を部屋に寝かせてくるから、銀雪とお前は早く行け」 「青龍、ありがとう。兄上は任せた。銀雪行こう」 「おう」  結界が破られた屋敷に素早く侵入すると、簡易的な魔除けの結界を屋敷に張り直してから座敷牢に向かった。  座敷牢に向かう途中、迎撃用の式が襲い掛かるが俺は霊符を使って防御し、銀雪が刀を振るい消滅させる。門から座敷牢まではそんなに遠くない筈なのに、京を東から西の橋まで走ったのではないかと思うほど、疲れはてていた。俺の衣は襤褸切れ同然だし、銀雪は額を切ったのか顔が血まみれだ。 「銀雪、額は大丈夫か。霊符で治せるけど」 「この程度など大丈夫だ。無駄なことに霊符を使うな」  無駄なことなどではないと思うのだが。綾人はむっとしたものの、自分を思って言ってくれているのだと理解出来ているので反論しなかった。ようやく座敷牢の入り口に着いて開けようとするが、結界が張られているのかびくりともしない。綾人が何とかして結界を破ろうとした時、がらりと入り口が開いた。 「父上…………その血は……」  父の身体は返り血で濡れていた。いや、父の血も混じっているのか。父の手を見てみれば、手は血だらけでぽたぽたと血が落ちている。 「まさか……龍藍を……」  銀雪の妖気がぶわりと膨らみ、鯉口を切って父に襲い掛かろうとする。俺は銀雪の袖を掴んで何とか阻止した。 「貴様は此方側だろうが!! 何故邪魔をする」  銀雪の怒りはもっともだ。だが止めなければいけない。 「父上は多分殺してない! そうですよね、父上」  根拠はない。だが陰陽師の勘が否と告げるのだ。願うように父を見つめると父は重く頷いた。 「…………中に入って蒼宮殿を客間に運べ。それと紅原に連絡しろ。話はそれからだ」  俺は頷いて座敷牢に入る。そこには血を吐いて呻き声を上げる龍藍殿の姿があった。 「龍藍殿!?」  龍藍殿のそばに駆け寄って呼び掛けても返答はない。青ざめる俺の横で、銀雪は龍藍殿を抱えた。 「……生きてはいるし、外傷はない。落ち着け」  ここで何があったのかは分からない。俺と龍藍殿を抱えた銀雪は土御門の客間に向かうことにした。  綾人と晴彦が激しい戦闘を繰り広げている頃、泰明は龍藍の17歳までの記憶を読み終えたばかりだった。複雑な表情をする泰明の目の前には苦悶の表情を浮かべる龍藍がいる。 「…………どうして此処京に来た。君は本当は武士で在りたかったのだろう」  10歳までの記憶は温かいものであった。母は姿を眩ませはしたが、愛情を込めて妖狐や父親に育てられた幼少期。  そして父親を喪って以降、薄氷に酷い折檻と陰陽道を叩き込まれる日々を過ごしている。それでも薄氷の目を盗んで剣や弓の鍛練に明け暮れている様は必死に武士の在り方を忘れないようにしている気がした。  薄氷が死んだ上に、あいつの語り言葉が嘘と知っているならば何故薄氷が死んだ後、故郷に帰らなかった。夕霧をつぶさに観察し、見守っていたであろう義弟ならば龍藍が夕霧本人である真偽はすぐに付く。その上、後ろ楯となってくれたであろうに。  それともう一つ疑問がある。それは15歳の記憶から見え始めた黒い靄である。人影であることは分かるが誰かは判明しない。記憶での薄氷の発言からして、人避けの結界がこの青年の周囲に張ってあったようだが、この靄はそれを易々と乗り越えていることになる。そんなことが出来るのは術師ぐらいだ。一体この靄は誰だ。  記憶が19歳になってからその靄の正体を暴くべく、霊力を込める。その時、何処かで酷く咳をする声が聞こえた。こやつは抵抗しているのか。それなら俄然と興味が湧き、霊力を強める。するとびりびりと手が痺れに襲われた。すると黒い靄が龍藍に馬乗りになり、刃を向けている光景が見えた。  なるほど。目はこの靄に奪われたのか。どうしてこの靄の正体を隠そうとするのか。泰明は更に霊力を強めて強引に靄を剥いで正体を見ようとする。そこまですれば徐々に靄が晴れたように正体が露になっていく。何処か見たような………。靄を完全に晴らそうとしたその時、ぱんと何かが弾ける音がする。 「なっ……あっ………!?」  泰明が痛みのあまり、記憶を読むのを中断する。そして自分を見ると返り血に染まっている。それだけではなく、泰明の両手も何ヵ所も斬られており、ぱたぱたと血が滴っていた。  泰明は龍藍に嵌めた手枷を見る。手枷はまだ辛うじて繋がっている。つまり霊力は解放出来ていないということ。ならばこの青年が使ったのは母である龍の血。 「あっ……が……」  血を何度も吐いて胸を押さえている。失血死しないのが不思議なくらいだ。手枷が龍の力を暴走させてしまっていると判断した泰明は、すぐに手枷を砕いた。だが中々母龍の力は収まる気配がなく、周囲の空気が真冬のように冷たくなっていく。今更になって先祖の忠告を聞かなかったことを後悔した泰明は、何とかしなければと座敷牢を出るそこで綾人と鉢合わせたのであった。  綾人は客間に向かう前に龍藍の首にあの呪具を掛ける。そこで苦しげであった龍藍の表情が和らぎ、呻き声を上げなくなった。 「これで落ち着いたのは良いけど、此処はあの神域のような身体を癒す空間など無い。どうすれば………」 「とりあえず、土御門当主の言ってた通りに紅原に連絡しろ。多分、あの妖狐を寄越してくる」 「そうだな……。叔父上なら対処も分かるかも」  情けない。自分が龍藍殿を守らねばならないというのに。綾人は何も出来ない歯痒さに目頭が熱くなりながら紅原に連絡の式文を飛ばした。客間についてすぐ熱を出した龍藍の着替え以外の世話をしながら返答を待つ。普通ならば数日掛かる筈の文は何と半刻で届いた。綾人は文を受け取るとすぐに開く。見慣れた真面目そうな筆跡が目に入る。  丁度此方も京におります。私は別件で顔を出せませんが、私の式神である桔梗ならば、私よりも龍藍殿の血のことについて存じております。すぐに向かわせましたので、文が着く頃には土御門の邸に着いていることでしょう。  叔父上はこの事を予想していたのではなかろうかと思ってしまう。それと此方に来てくれないのは父上のことを避けているのでは。綾人が丁寧に文を畳んでいると、門の方から女の声が聞こえた。 「紅原の使いで参った者だけど、開けてくれないかね」  ではあの声が文に書いてあった桔梗という妖狐か。俺は門まで駆け出すと関貫を外した。そこには茅かや色の髪をした女が立っている。 「おま……貴女が桔梗殿か」 「ああそうだよ。で、蒼宮は何処かな。案内してもらいたいのだが」  俺はすぐに龍藍殿が寝ている部屋まで連れていく。桔梗は龍藍の顔を見ると、軽く着物の前を開いて容態を確認した。その表情は真剣そのもので、綾人はただそれを見守っていた。桔梗は龍藍殿の襟を整えながら口を開く。 「陰陽の均衡が崩れている。うちの頭領の呪具で落ち着いてはいるが、今の状態では気休め程度だ。こんな時の為に薬と頭領が書いた霊符を持ってきたけど、目覚めるのに結構かかるかも」 「それでも良い。お願いだ……どうか龍藍殿を」  何日でも待つから龍藍殿を救ってほしい。俺が頭を下げると、女が俺の肩を軽く叩いた。 「それはもちろんだとも。何せ私は薬師なのだから」  桔梗殿は龍藍殿にそっと薬湯を飲ませると、専用の霊符を龍藍殿の胸元に張る。先程よりも幾分か落ち着いたところで、桔梗殿は俺の方に視線を向けた。 「さて、龍藍君を心配するのは良いことだが、君も治療した方がいい。それと君のお父様やお兄様もね」  そこで綾人は自分や父と兄が傷だらけであったことを思い出した。兄上や父はともかく、俺は大したことはないので大丈夫。そう言うと、桔梗は恐ろしい顔をした。 「傷口を放置すれば腐って死ぬこともあるんだ。ちゃんと君も治療を受けなさい」  俺は言うことを聞くことにしたが、薬が凍みるのがあまりにも痛かった為、涙が出そうになりながら呻いていた。  自分が思ったよりも結構怪我をしていたようだ。綾人は包帯だらけの自分の身体を眺めながら、ぼんやりと思った。 「冷静になってない時や、戦うことに集中していると痛いことに気づきにくくなるものだよ。それで落ち着いたら思い出したかのように、一気に痛くなるんだ。どうだい、今は痛いだろう」 「あちこちずきずきと痛いが、このくらい平気だ」  俺の傷はそこまで酷いものはない。だが父上と兄上がどうなのか分からない。桔梗を兄や父の部屋に案内して治してもらうことにした。  父は手の傷が少し深かったので十日程度筆を握ることを禁じられ、兄上は俺と同じ治療を受けることになった。あの時は気絶していた兄上だったが、部屋を訪れた時にはもう目が覚めていた。治療を受けている時の兄は顔をしかめており、終える頃には少し涙目になっていた。 「綾人、父上と龍藍殿はどうなったのです。貴方が此処にいるということは、父上に此処にいる許可を得たのですか」 「いや……まあ、とりあえず現在は此処にいろと命じられた。父上は手を怪我してしばらくは筆が握れない。…………それと龍藍殿は血を吐いていた。今は眠っているから心配はしなくていいよ。父上はまだ何も言わないけど、俺は父上が龍藍殿の記憶を覗いた際に、龍藍殿の霊力か何かが暴走したと推測している」 「それはありえますね。龍藍殿の霊力は普通の陰陽師などよりも遥かに強力で、使い方を誤れば、本人だけでなく周囲を傷つけかねない程の代物ですから」  抑えきれない力に龍藍殿はどれだけ苦しめられたのだろう。目覚めたら、謝らなければならないと綾人は唇を噛んだ。そんな綾人を見ていた晴彦は綾人の頭を撫でる。 「なんだよ兄上。俺を子供扱いして」 「いいえ、そうではありませんよ。綾人、貴方は強くなりましたね」  さっきまであんなに互いを傷つけ合ったのに呑気なことを言っている。褒められることに後ろめたさもあったが、一番近くて届かない兄上(憧れ)にそんなことを言ってもらえて、俺はただされるがままに頭を撫でられていた。   龍藍殿の部屋に戻ると綾人は龍藍の顔を覗き込んだ。今はあの時よりも顔色がマシになった気がするが、熱が引いてない。額に掛けてあった手拭いが温くなったので取り替える。絞った手拭いの冷たさが心地よかったのか、龍藍殿の顔が少し微笑んだ。 「龍藍殿…………」  貴方を守りたいというのに口ばかりだ。俺は……まだ何も貴方に出来ていない。それが何と口惜しいことか。せめて自分が出来ることとして綾人が寝ずに看病しようとすると、桔梗に止められた。 「言っておくけど君は怪我人だし、霊力が底を尽きている。そんな様子で寝ずに看病しては共倒れになるだけだ。この子の看病をしたいのなら、ちゃんと自分が寝てからだ。分かった?」  言われる通りだ。それでもこんな状態の龍藍殿から離れたくない。そんな気持ちは冷静ではないとは理解している。悩む俺の肩を銀雪が軽く叩いた。 「年増……じゃなく桔梗殿の言う通りだ。俺と桔梗が代わりに看てるからお前はちゃんと眠ってろ。何せ、お前は必死に頑張ってたからな。休んでも誰も文句は言うまい」  銀雪の言葉に、俺の胸を支配していた不安が薄れていく。龍藍殿の親同然の銀雪がそう言うならば、任せても大丈夫だろう。 「銀雪……ありがとう。龍藍殿のことは任せた」  銀雪は頷く同時に一気に疲れが押し寄せて眠気に襲われる。俺はその場で倒れると意識が睡魔に呑まれた。  銀雪は倒れかけた綾人を受け止めると背負う。そんな銀雪を見て桔梗はふふっと笑った。 「お前が零月や夕霧以外を背負うのを初めて見たよ。心変わりかい?」 「心変わりじゃない。夕霧の為に頑張ったのだから、寝室に運んで寝かせてやってもいいと思っただけだ」  ふんとそっぽを向く銀雪に、素直じゃないなあと桔梗は笑う。 「でもこの次男坊の部屋分からないだろ。……という訳で晴明(はるあき)、隠れてないで案内お願いね」  気配に気づかなかった銀雪は驚いて桔梗の視線の先にある襖を凝視する。すると襖が開かれ、青年がぎこちない顔で微笑んでいた。 「叔母上、お久しゅうございます。……ところでいつから気づいていたのです?」 「最初からだよ。お前の隠行くらいお見通しだ」  …………は? この年増狐と、平安の陰陽師は叔母と甥という関係なのか。ということはこの女狐は最低でも700年以上生きているのか。俺の親父よりも年上じゃないか。 「やっぱ年増……いやなんでもない」  桔梗にきっと睨まれ、銀雪は目を逸らした。 「あんたにとって桔梗が叔母だったとは思わなかった」 「そうだろうねえ。今の時点で知っているのは天将達ぐらいだし」  前を歩く青年は苦笑する。綾人の部屋は晴彦の部屋の二つ隣ですぐに着く。綾人は蒼宮邸に監視という名の居候中の身であるため、私物は向こうにある。その為か、部屋は生活感が殆ど無かった。 「えーと、褥は此方だっけ」  青年は布団を抱えてくると、部屋に敷く。真っ直ぐで皺ひとつもない敷き方。こいつは相当な几帳面だなと思いつつ、銀雪は綾人を布団に寝かせた。綾人はぐったりとした顔で眠っている。相当疲れが溜まっていたんだな。銀雪は労うように綾人の頭を撫でた。 「まさか綾人がねえ。あんな鬼気迫る顔をして必死に晴彦と戦う姿なんて初めて見た」 「あいつ、龍藍に惚れていると宣言しているからな。その前には龍藍を庇って、霊力の塊の矢で射たれてた」  それは流石に知らなかったのか、青年は両目を大きく見開いた。しばらく無言でいたが、青年は綾人の頭を軽くぽんぽんと叩く。 「小さい頃は少しでも痛いと泣きじゃくってた綾人がねえ。成長したというか、恋心の力というか」 「自分は何も出来ないと言っていたが、俺はこいつの頑張りは認めてやってもいいと思ってる」  そんな心境の変化に銀雪自身が驚いている。でも龍藍が同意しない今は、友達以上の関係になどさせないがな。綾人の顔を見ながら銀雪は問いを口にする。 「…………あんた、最初から龍藍の正体を知っていただろう」  青年は何も答えず薄く微笑を浮かべるだけ。それを肯定と捉えた銀雪は次の質問をする。 「最初は龍藍のことを知らない振りをしていたのに、どうして土御門当主があんなことをした時止めなかったのだ。貴様の差し金か」  その問いには首を横に振る。じっと銀雪の双眸が捉えると、青年から微笑が消えた。 「………私は死後に神に祭り上げられたけどさ、とどのつまり死者なんだよ。死者である私は生者に忠告は出来るが、生者の歩みや選択は止められない。止めたいと思っても…………」  その顔は、綾人がいつも浮かべる無力感にうちひしがれる表情によく似ていた。  翌日の昼過ぎに綾人は目覚めた。自分が思う以上に眠っていたことに驚きつつも、龍藍の部屋に向かう。熱はまだ下がっていないようで、顔が赤い。綾人は龍藍の傍に膝をついた。 「桔梗殿、龍藍殿に何か異変はあったか」 「いいや、何もない。熱もまだ下がらないよ。昨日よりは陰陽の乱れも静まってはきているかな」 「そうか……」  普通の人間で陰陽が乱れることは極稀でしかないが、人に妖や神の血が混ざった者であれば陰陽は簡単に乱れ、化物に堕ちることがある。俺はそうなった者を見たことはないが、叔父上や従兄弟は遭遇したことがあるのだろう。この美しく恋い焦がれる人にはそうなってほしくない。そう願ってしまう。 「で、綾人君。君が昨夜言っていたようにこの子の看病をしてもらいたいのだが構わないよね」 「勿論です。ただこう冷静になってみると、貴女を前にして俺に出来ることがあるのか分からなくなってしまいまして……」 「あるとも。私が指示するから言われたように動いてくれればいいよ。分かったね」 「はい」  こうして桔梗殿の言われるままに動くことになった。その前に父に出仕すべきか聞いたが、しばらく出仕しなくていいと言われたことで俺は一日中看病に時間を費やす。桔梗が持っていた叔父上の霊符の手持ちが尽きたので、残りの一枚を参考にして毎日龍藍殿の横で十数枚も作符する。あとは顔の汗を拭いてあげたり、薬湯を慎重に飲ませたりなどだ。身体の汗や着替えは銀雪が行ったため、龍藍殿の胸の痣らしきものを確認できなかった。7日後にようやく熱が下がったが、龍藍殿は目覚める気配が無かった。  神域にいたあの時よりも時間が経っている。それは当然と言えば当然なのだが、綾人は僅か八日程度を一年経ったように感じてしまった。綾人は龍藍の手に触れる。手はほんのりと温かく、鼓動が感じられた。 「龍藍殿……」  愛しい名を呼ぶ綾人の声が震える。銀雪や桔梗、青龍がいた時は涙なんて見せられないし、看病しなければという使命感で平常心を保っていた。だが今は誰もいない。そのせいか、押し殺してきた感情が目から溢れる。 「龍藍殿……どうか……目を開けてください……」  貴方が幸せそうに笑う顔が見たい。貴方の笛の音が聞きたい。貴方と語り合いたい。それ以外のことなど望みはしないからどうか……。綾人は涙が止まらなくなり、龍藍の傍で嗚咽する。肩を震わせて泣き崩れる綾人の声がしばらく部屋に響いていた。 「綾人、交代の時間だ。さっさと飯を食って休……何でそんなに目元が赤い?」  交代を告げに来た銀雪は、綾人の真っ赤に泣き腫れた目を見てぎょっとする。綾人は首を傾げながら自分の目元を擦った。 「そんなに赤いか?」  ごしごしと袖で目を擦る綾人。綾人の袖がぐっしょりと濡れているのを見た銀雪は綾人が散々泣いたことを悟った。 「あーもーそんなに擦るな。余計に腫れる」  見かねた銀雪は傍にあった清潔な布を桶に濡らすと、綾人の目元を軽く押さえた。 「ちゃんと冷やさないと明日酷い目を見る。そんな顔を龍藍に見せたくないだろ」 「それはそうだな……。龍藍殿を驚かせたくない」  龍藍殿が驚きのあまり気絶しては困るなと綾人は力なく笑う。銀雪の慣れた手つきからするに幼い頃の龍藍殿にもこうやってしていたのだろうか。綾人は銀雪から布を受け取り、目を瞑って押さえた。交代の時間なのだから、そろそろ手を離さなければ。綾人は龍藍の手を放すことが惜しいと思いつつも離そうとする。するとそれまで反応が無かった筈の手が綾人の手を掴んだ。 「龍藍殿………?」  綾人は目線を自分の手を掴む龍藍の手に移した。夢じゃない。本当に掴んでいる。恐る恐る龍藍の顔を見ると、薄く青い瞳が目蓋から覗いていた。綾人は目の前で起こっているとこが信じられなくて、頭が真っ白になる。 「龍藍殿……聞こえますか……?」  徐々に美しく青い目が開かれていく。俺が手を思わず強く握ると、焦点の合わぬ目のまま顔が少しだけ此方に向けられた。 「綾人殿……?」  久しぶりに聞く龍藍殿の柔らかな声。途端に、もう出ないと思っていた涙がまた溢れ出した。 「龍藍殿……良かった。申し訳ございません……俺が貴方を守れなかったせいで……っ……苦しい思いをさせてしまって」  溢れる涙を隠さぬまま綾人は謝罪する。龍藍はただ首を横に振ると微笑んだ。 「いいえ。貴方は何も悪くないのです。それに貴方は庇ってくださったではありませんか。ですからどうか泣かないで」  龍藍は身体を起こすと、綾人をそっと抱き締める。綾人は銀雪が傍にいることも忘れて龍藍を強く抱き締めた。それを銀雪は何とも言えない顔で見つめていた。  その後、銀雪から呼ばれた桔梗は龍藍を診察する。龍藍が自分のことを覚えていたことに喜びつつ、桔梗は結果を口にした。 「目覚めたからにはもう大丈夫。あとは一日に一回薬を服用して、霊符を枕元に置くこと。1ヶ月もすれば動き回ることも出来るようになるさ」  龍藍達が礼を言うと、桔梗は泰明から報酬を貰って土御門邸を後にした。

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