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終幕
共に細やかで幸せな日々を歩む
それからの日々はとても穏やかな物であった。共に陰陽寮で動き、家では翠雨の成長を見守る。夜は平安に名を轟かせた綾人の先祖こと安倍晴明が師として龍藍に退魔術や母の血を制御する方法、そして体術を教え込んだ。綾人も共に鍛練しており、10年間幽閉されていたため持久力の乏しい龍藍が、限界を迎えた際の介抱役も担っていた。
「龍藍。あまりにも疲れてしまうのならば、先祖にもう少し手加減するように言いましょうか」
残暑もまだまだ厳しい宵の時。霊力の枯渇で目眩を起こした龍藍に膝枕をして団扇を扇ぎながら、綾人は提案する。だが龍藍は、首を横に振るだけであった。
「いいえ、大丈夫ですよ。この力が人の為になるならば、いくらでも修練いたします」
「こんなことを言うのも何ですが、あまり人の為に自分を蔑ろにしないでください。俺の幸せは貴方が健康で幸せな時を過ごすことですから」
綾人は何と率直に愛情を伝えてくれるのだろうか。龍藍は頬を赤く染めた。陰陽寮では互いに以前の呼び方であるが、蒼宮邸や二人きりの時は呼び捨てをする仲になった。それでも敬語は抜けぬままであるし、互いにこれでいいと思っている。
「……龍藍、ひとつ質問をしていいですか」
僅かに綾人の様子が一変する。何だろうと思いつつも龍藍は頷いた。
「龍藍。貴方は、俺の従兄弟である時雨の延命をさせるために、目を渡したのですか」
龍藍の瞳が凍りつく。どうして。あの子との関係は銀雪や龍神と巫女以外に言っていないのに。龍藍は、頭上にあるであろう綾人の顔を見ることが出来なかった。
「いえっ……あの……責めている訳ではないんです! ただ知りたいだけであって……」
表情が青ざめていく龍藍を見て綾人は慌てて首を横に振った。あの事で罪悪感を抱えていた龍藍は、糾弾されるのではないと悟り、ほっと胸を撫で下ろした。
「そうでしたか……。いつから気づかれたんです? 龍神様が仰られたとか?」
「いいえ。……貴方も知っての通り、俺にとって時雨は従兄弟にあたります。貴方と出会う少し前に時雨と会ったんですが、楓が亡くなってから彼に生じていた霊力の危うい揺らぎが治まっていたんです。それと……神域を出てから貴方が俺の叔父と夜中に話していたでしょう。時雨の霊力の安定とその少し後に姿を見せた片目の貴方。叔父がそれを悟らぬ訳がありません。そのことで話をされていたのではないかと。それでも確信はございませんでした」
彼の言う通り、私はあの夜に紅原殿にその事を聞かれた。言うかどうか迷いつつも打ち明けて、身勝手なことをしたことを謝罪した。
「確信に変わったのは、父に貴方の記憶のことを教えられたのです。時雨に似た人物が貴方に馬乗りになって貴方の目を抉ったと」
龍藍は綾人の膝に置いていた頭を持ち上げる。目眩はないし、この姿勢で打ち明けるのは失礼だ。龍藍は綾人の横に座った。
「……貴方は時雨が自分が生き長らえたいからとそんなことをすると思います?」
「どう……でしょう。あいつは他人を殺してまで延命したいと思う性格ではない……気がします。ですが、あいつは里の長の後継としての重圧がかかっています。周りの人間の幸せの為ならそんなことをしてもおかしくないと思います」
その通りだ。時雨は生業故に手を血で染めているが、己の為に人を傷つけられない。
「……僕が仕向けたんです。彼の心を少しだけ操って、僕の目を奪うように」
綾人の顔は困惑と動揺で染まっていた。まさかここまで話す日が来ようとは。僕は自分の手の甲に爪を立てる。罪は消えようがない。だけどここで逃げられない。
「貴方のことを嫌いになどなりません。ですから話してください」
綾人が僕の手を握って真っ直ぐな目で見つめる。僕は頷くと、過去の記憶を口に出した。
時雨と出会ったのは楓殿との見合いの日であるが、再会したのは私の父が亡くなってから五年以上経過した日のことである。夜に笛を吹いていたら、山中で瀕死の状態の彼を発見した。紅原は父の仇であると教えられてはいたが、楓殿とよく似た顔で放ってはおけないと心のままに彼を介抱した。目が覚めた彼は当然ながら私のことなど覚えてはいなかった。その方が都合がいい。叔父が来た日は、時雨を隠しつつ彼が起き上がれるようになるまで彼の世話をした。彼は次第に私を兄のように慕ってくれて、山を降りたあとも何度も私の元に来てくれた。
それから数年後に時雨の魂の危うさに気がついた。時雨と楓殿は二人でひとつ。叔父は時雨が和御魂で楓が荒御魂の分御霊と考えていた。だが私は逆だという確信があった。
というのも時雨の魂に危うい揺らぎが生じた際、苦しげに胸を押さえる彼から漂うものは、霊力でなく苛烈な神気であったのだ。私の血には人を癒す力があることを思いだし、時雨に少量血を飲ませると揺らぎは治まったが、それ以降も危うい揺らぎは何度も生じた。
和御魂である楓を喪ったことで魂の均衡が崩れている。それを理解していたが、対処法など見つからない。楓を黄泉から戻すことは出来ぬ。でも欠けた魂を埋めるものが必要だ。どうすればいいのだろうか。必死に考えても思い付きなどしない。
そんな折、大病を患っていた叔父に時雨との密会が露見してしまった。叔父は一言、「紅原の次代を殺せ」と言った。そんなことなど出来はしない。どうすれば回避出来るだろうか。叔父から渡された大量の術書を捲る。そこにあったのは血を飲ませて人を操る術。そして……荒ぶる神に神の五行とは相剋となる者を贄として与えて鎮めたという記述。
「それで私の魂を時雨に与えることを思いつきました。操る際は心の臓を抉るように仕向けてたのですが、何故か片目だけという形になってしまいました。……時雨を殺すぐらいなら、自分が殺されて糧となる方がましですから」
黙って聞いていた綾人は顔を俯かせて震えている。怒っているのでないだろうか。龍藍が綾人の顔色を伺おうとしていると、突然指で額を弾かれた。
「いたっ……!? 綾人……?」
「龍藍の大馬鹿者。貴方が死んで良いわけがないでしょうが!」
綾人は目元を潤ませ大声で叱る。龍藍は涙目で額を押さえながら綾人を見つめていた。
「仕方ないじゃありませんか。龍神様に出会ったのはあの泉に落とされて以降ですし、それ以前は叔父や時雨以外との人の接触が無かったのですよ」
「ですけど貴方は本当は死にたくなかったんでしょう!? ならば命を捨てるような真似は止めてください!」
綾人は言い終えると私を抱き締めた。声音は厳しいのに、己を抱き締める手は温かく震えている。……そうだ。あの時は自分の存在意義など朧気で、殺されてでも時雨に「僕 」のことを覚えていて欲しかった。だけども今は、自分が死ねば悲しんでくれる人を肌身で感じられる。そのせいか昔が嘘だったかのように死ぬのが怖くなってしまった。
「……時雨を救ってくださったのは言い表せない程に感謝しています。ですけど、俺は貴方を喪うのが怖い。二度とそのような真似はなさらないでください」
「はい。……ところで、時雨の心を操ったことは怒ってないのですか?」
綾人はしばらく黙った後、考え事をしているのか私の背を無言で撫で続けた。
「時雨の心に傷を負わせたのは事実です。それにも怒ってはいますが、操ったのは時雨に害を成さない為だと聞くと怒るに怒れないと言いますか……」
うーんと唸っていた綾人は、背中を撫でていた手を頭に移した。頭を撫でられる手つきはどこまでも優しい。
「来年、貴方のお父上のお墓参りがてらに俺と玻璃野に行きましょう。その時にでも時雨に事情を打ち明けるのです。きっとあいつなら許してくれます」
本当に許してくれるだろうか。また兄弟みたいに笑える日が来るだろうか。震える指で綾人の腕を掴んで目を閉じる。
「大丈夫です。ですからそんなに不安がらないで。俺を信じてください」
綾人の言霊の強さに心が救われる気がする。そのお陰か指の震えが治まった。
私の指の震えが完全に治まったところで綾人がぎこちなく口を開いた。
「ところで……時雨には恋心は抱かなかったのです……?」
まさかそこを気にするとは。少しだけ驚いたものの、疑いたくなるのは当然なのかもしれないと、苦笑する。
「いいえ、時雨は私にとって親友であり、弟のような存在です。私がお慕い申し上げる同性は貴方だけですよ、綾人」
綾人は安堵の息を吐く。そんなに心配しなくても良いのに。私は綾人の肩に頭を預ける。細身なのに力強い腕の中はとても安心するのだ。
「すみません……。せっかく恋人になったのに疑うようなことを言ってしまって。貴方と両想いになれただけでも幸せ者なのに、もっと愛し愛されたいと欲張ってしまうのです。貴方の髪の一筋から爪先までもが、愛おしくて堪らない」
優しく私の頭を撫でる綾人。こうも優しい手つきだと、どこか懐かしさを覚えてしまう。まるで幼い頃に父上に撫でられたときのような。
「貴方に愛されている私も幸せ者ですね。こうして貴方のぬくもりを感じる時間が一番至福なんです」
ずっとこうしていたいと願ってしまうほどに、こうしている間は辛いことや苦しいことを遠くへ追いやったような気分になる。
どれ程そうしていただろうか。ふと綾人がぽんぽんと私の背を叩いた。
「龍藍、空を見てください」
綾人に寄り添い、彼が指差す方に目を遣る。空には溜め息が出るほど美しい月が宵の空に輝いていた。
「ああ……とても綺麗ですね」
「でしょう? こんなに美しい月を貴方と見ることが出来て幸せです」
「ええ……そうですね」
いいえ。月を美しいと思えるのは愛しい貴方と一緒に見るからなのですよ。などと言うのは恥ずかしくて、代わりに綾人の頬に口づけをする。耳まで真っ赤になって照れる綾人の隣で龍藍は幸せそうに笑った。
《完》
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