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第4話
「佳以、おまえ、ゲンノショウコを摘み損ねたんだって?」
「……誰に聞いたの?」
佳以はまだ開花していないゲンノショウコを手にしていた。
「うっかり、家のゲンノショウコ、咲かせちゃってね。花としてはきれいなんだけど、薬効はほぼなくなっちゃうから」
「へぇ……薬草って、繊細なもんなんだなぁ」
佳以が専門としているのは、基礎医学の中でも薬理学……特に、佳以は漢方を研究している。そのために、大学だけでなく、自宅でも薬草を栽培しているのだ。
「だからさ、佳以。おまえ、徹夜とかしない方がいいんだって。研究に根詰めすぎて、逆に研究が滞るんじゃ、本末転倒だろ?」
確かに、論文の締め切りが近づいていて、最近睡眠不足気味だ。おかげで集中力や注意力が落ちてしまい、ゲンノショウコを開花させてしまった。
「……うん」
佳以は小さく頷いた。
「そうだね……」
緑色の風が渡る。さらさらと揺れる佳以の素直な髪。律は、少し冷たくなり始めた夕暮れ時の風から、小柄な幼なじみを守るように、そっと風上に立った。
「あんまり、無理すんなよ」
気遣わしげにささやく幼なじみに、佳以はふわりと微笑んだ。まるで白い花が綻ぶような……柔らかな微笑みだ。
「律こそ。救命って大変でしょ? お祖父様も心配してたよ。律は自分をいじめる悪い癖があるって」
「別にいじめてるわけじゃない」
律は爽やかに笑う。
「救命は、俺の性格に合ってるんだよ。俺、忙しく走り回るの、好きだからさ」
佳以と律の同期で、救命に進んだものは律一人だけだった。白櫻学院大学医学部付属病院の救命科は、ドクターヘリも備えている北米型のERタイプだ。日本における救命科は、ICUタイプと呼ばれるものがほとんどで、自院で治療できないものは基本的に受け入れない。特に大学病院の救命科は三次救急がほとんどなので、要請されたら、ほぼすべての傷病者を受け入れるERタイプはめずらしく、また激務でもある。その中で、律は生き生きと働いていた。
「佳以、今書いてる論文が終わったら、どっか遊びに行こうぜ。そうだな……もう秋になるだろうから、紅葉でも見に行くか」
「……でも、休みの時は、少しでも身体を休めた方がいいんじゃないの?」
「俺がそういうタイプに見えるか?」
律は笑いながら言った。
「俺はじっとしてる方がストレスになるんだよ。家でじっとしているより、佳以の可愛い顔見て、一緒にドライブにでも行った方がよっぽど疲れが取れる」
「か、可愛いって……っ」
佳以は耳たぶが熱くなるのを感じる。
「あ、アラサーのくたびれた研究医つかまえて、何言ってるの……っ」
「佳以は可愛いよ。初めて会った時から今まで、ずっと変わらずに可愛い」
空は青から薄紫に変わっていた。もうじき、日が暮れる。
「なんだか涼しくなってきたな」
もうじき、夏は終わる。二人の季節は慌ただしく過ぎていく。
「今日の晩飯、うちに来ないか? 野々宮先生も一緒に」
「いつもありがとう。いいの?」
「今日はめずらしく親父が帰ってくるんだよ。母さん、張り切りすぎててさ……」
二人はゆっくりと歩き出した。佳以の腕の中で、緑色のゲンノショウコが揺れる。
穏やかで優しい時間。二人はそれが永遠に続くと思っていた。
まだこの時は。
佳以の家の庭には、二本のイチジクの木があった。
「今年もいっぱいなったねぇ……」
大した手入れもしていないのに、イチジクは毎年たくさん実をつける。
「土がいいんだろうな」
祖父はそう言うと、低く枝を垂れたところから実をもぎ取った。すでに実は弾けていて、深い赤の果肉が覗いている。
「……うん、美味い」
祖父は一口囓ると、満足そうに頷いた。
「お祖父様ったら……」
佳以は呆れたように言い、くすっと笑う。
「早くもいだ方がいいね。だいぶ割れてきてる」
「手が届くところはもいでおくから、今日か明日、律に取りにくるように言っておいてくれ」
祖父が言った。彼も律のことは可愛がっている。戸籍の記載上ではあるが、最愛の孫と同じ日に生まれたという不思議な縁の幼なじみを、祖父はやはり特別に思っているようだ。何かにつけて、律を家に呼びたがるし、彼もまたもここに来たがる。佳以と律が小さかった頃には、夏休みなどほぼここに住んでいたくらいだ。
「律は忙しいのか?」
「ああ……最近、家に来てないからね」
佳以は腕を伸ばして、届く範囲の熟れた実をもぎ取った。
「律は救命だからね、泊まりも多いし、忙しいんだよ。あんまり家にも帰ってこないって、不破のおばさまも寂しがってる」
「いずれ、あいつもどこかよその病院に行っちまうのかな」
祖父がぽつりと言った。
「ずっと付属病院にいてくれれば、家から通えるし、おまえともずっと仲良くしていられるが……」
「そんなの強制できないよ」
佳以は優しく言う。
「救命救急医は、どこでも引っ張りだこだからね。特に律は優秀だし、あと二、三年したら、どこか他の病院に就職するかもしれないね」
律がいなくなる。ずっと寄り添って生きてきた大切な幼なじみが、自分の手の届かないところに行ってしまう。口に出した一般論とは別のことを、佳以はぼんやりと考えていた。
〝律がいなくなるなんて……〟
ただの幼なじみだ。ただ、近所で同じ日に生まれただけの。理性ではそうわかっていても、なぜか、律は絶対に自分の傍から離れていかないものと、無意識のうちに考えていた。
〝そうだよね……律は……ただの幼なじみなんだ……〟
「律は忙しいから来られないかもしれないけど、僕が不破のおばさまにイチジク届けるから心配しないで」
佳以はもいだイチジクを紙袋に入れた。医局に持っていけば、誰か食べてくれるだろう。
「じゃあ、行ってくるね。律には伝えておくよ」
佳以はいたずらっぽく笑う。
「お祖父様が律に会えなくて、寂しがってるって」
医局に持っていったイチジクは、秘書や医局員たちが大喜びで分けていた。
「このプチプチが美味しいんですよねぇ」
秘書の女性がにこにこしながら言っていた。
「私の田舎の方では結構売ってましたけど、この辺ではあまり見ませんよね」
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