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第48話
もう二度と来ないつもりだった。
自分の来るところじゃないと思ってたのに。
それなのに。
ふいに、スラックスのポケットに入れていた携帯電話が揺れる。
真は上半身を起こし、携帯の応答ボタンを押した。
「…片岡です」
『片岡様。こちらは夢見荘でございます。本日はご利用ありがとうございました。
何か気になる所などございましたか』
「ありがとうございました。特には、ないです。…田中さんに、宜しくお伝えください」
『かしこまりました。またのご利用を、お待ちしております。ありがとうございました』
電話は、ひどく機械的なやり取りに終わった。
淡々と話す電話の相手は、最初に予約受付を担当した女性だった。
この2時間ここで過ごした時間と熱が、早くも冷め始めている。
あれは夢ではなかったと分かっていても、終わってしまえばまた、
現実味を帯びた空気が身体にまとわりついてくる。
風呂から出た時の、弘の言葉が忘れられない。
『人は、与えられることには慣れてるけど与えることには慣れてないんだ。
与えたら与えただけの見返りを求めるし、与えられ続ければ、
いつしかそれに慣れて何が普通なのか分からなくなってくる。
次第に欲深くなって、自分の欲を満たせない相手を傷つけてしまう。
こんな仕事をしている俺が言うのもなんだけど、求める前に、
与えられていることに気づくと、相手への見方も変わってくると思ってるよ』
自分は男娼だとか言って、歯がゆいことも言う癖に。
どうもそればかりとは思えないようなことも言う。
どちらが本当の弘なのか、分からない。
バスルームから、水の滴る音が聞こえてくる。
扉を開けると、バスタブについている蛇口から生ぬるい水がぽたり、ぽたりと垂れ落ちていた。
室内はまだ温かい。
真はバスタブの蛇口をきつく閉めて、ベッド脇のソファに置いてあった鞄を取りに戻った。
「…帰ろう」
鞄とコートを手に持ち、静かに客室の扉を閉めた。
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