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お前を守ると誓った日【涼視点】
昨年の新学期シーズンは満開の桜も葉桜さえも例年より早くに過ぎ、春という季節感もへったくれもなく、ただただ何となしにうららかなだけだった。
二年生になった俺は、一学年上に絶対的な正捕手がいるからまだスタメンには遠い。それでも後輩ができるということにかなり浮かれていた。
部室の前に真新しい制服の後ろ姿を見つける。男子生徒、新入生だろうか。そこに入るでもなくウロウロと、それでも何らかの意思を持ってそこにいるのは感じられた。
「ねぇ、一年生?仮入部したい人?」
びくっと震えた身体がこちらに振り返る。
やわらかく春風にたなびく黒髪に、日焼けも肌荒れも知らなそうななめらかな白い肌。見惚れた、後から思えばその時見初めた。初めて男を綺麗だと思った。
どうしてだかその表情は怯えているように見えた。急に話しかけられたからびっくりしたのだろうか。
眉の垂れ下がったその不安げな表情に庇護欲が湧いた。きっと彼は仮入部希望に違いない。俺が顧問のところまで案内して、それでその先も面倒を見て弟分みたいにしてやって仲良くなれたら……そんなことを一秒にも満たないうちに画策した。
「見学だけでもしてったら?中学では野球やってたの?ポジションは?」
「あ、えっと……一応ピッチャーやってたんですけど、でも」
「ピッチャー!?いいねー。俺はキャッチャーなんだよね。ほら、こっち。もうすぐ練習始まるから」
「あの、」
何か言いたげだった彼を半ば無理やりに連れ『見学希望者です』と顧問に引き渡した。
その日の練習は妙に張り切ってしまった。仮にも俺が誘ったあの新入生が見学している。時折そちらに視線を送るも、彼はどうにも浮かない表情で佇んでいたが。
練習後、例の彼に感想を聞いてみようとその姿を捜す。他の見学の新入生は既に解散した後だったが、彼だけは顧問とふたり、グラウンドの片隅で話をしているようだった。
「……すみません、俺やっぱり」
「うーん、もったいなと思うけどなぁ」
会話を盗み聞きしつつさり気なく近寄って行く。近くで見るとやっぱり儚げで可愛い。顧問がいると言えど、絡みたい気持ちが勝(まさ)ってしまった。
「お疲れ様でーす!」
「あーお疲れ」
顧問の投げやりな挨拶。彼もぺこりと俺に頭を下げた。
「そうだ鵠沼、お前も七里ヶ浜中は知ってんだろ?」
「あー、知ってます知ってます。あそこの野球部結構強いっすよね」
海沿いにある市立中学。自分もこのエリアで育ってきているから強豪の中学のことはもちろん把握している。
「片瀬くん、そこのエースだったんだって」
片瀬くん、って名前なんだこの子。そして七里ヶ浜中の元エース。顧問から次々に情報がもたらされる。
「俺としては片瀬くんにぜひ入部してほしいけど、あんまりノリ気じゃないみたいでさ」
顧問が困ったように白髪混じりの頭をかく。
「え?何で?七里ヶ浜のエースだったんなら上手いんでしょ?中学で燃え尽きるとか早いって。俺らと一緒にやろうよ」
おそらく顧問以上に俺が必死になってきた。この片瀬くんがいるのといないのとでは、この先の俺の野球部人生、天国と地獄ほどに違ってしまう気がした。
「あの、俺、身体がもうダメかもしれなくて……」
片瀬くんの声は少し震えていた。
「中学で肩か肘でも痛めたか?」
顧問の問いに彼は答えない。泣きだしそうにも見えた。
「……もしかして、何かの病気、とか……?」
残酷なことを訊いているのはわかっていた。それでも彼のことを知りたかった。私利私欲のためにどうにか勧誘したかった。俺は本当に勝手な野郎だ。
片瀬くんはやっぱり答えてはくれなくて、その身体も小さく震えていた。
「……ごめんなさい、俺、実はΩなんです……」
グサリと心を刺された気がした。俺は何てことを告白させてしまったんだろう。
Ωという性には十代後半から周期的に発情期が起こる。その時期になると体調もひどく力も入らなくなると聞くし、大抵のスポーツには向かないだろう。
それに部活に入ったらクラスメイトよりも密接に関わるようになる。野球は団体競技だ。隔離して個人練習ばかりとはいかない。
Ωのフェロモンに惹きつけられるαには高い身体能力を誇る者も多く、この野球部にも俺を含めそこそこの人数のαがいる。そんな中に放り込まれるのは安全なわけがない。
片瀬くんは野球を続けたいのに、たくさんの不安要素に押しつぶされ諦めかけている。
彼はピッチングのレベルも高いのだろうし、バッテリーを組めたら楽しいかもしれない。ただ彼がΩだと、そして野球を続けることを諦めかけていると知って、そんな自分自身の期待感よりも、とにかく彼に野球を続けさせたくなった。諦めることの悔しさは俺も知っていた。
「すみません、入部はできないです」
「ちょ、あ……片瀬くん!」
顧問に頭を下げて足早に立ち去る片瀬くんを、俺は追いかけていた。
「待てって、待ってよ片瀬くん」
「ごめんなさい、ほんと……もういいんで……」
手首を捕まえて振り向かせると、睨みつけるような鋭い目つきに反して彼の白い頬には涙が伝っていた。
なんて綺麗に泣くんだろう。美しいそれに目を奪われたけれど、そんなものは見たくないとも思った。
きっとこの時だ。片瀬塁斗の内面にも恋をし始めたのは。
Ωという性のために野球を諦めなければと思っている片瀬くん。どんなに強がっても、本当は泣いてしまうほどに悔しくて辛い。俺にできることは、彼に野球を続けさせてやることしかない。
不毛な恋のはじまりのはじまりの時だ。
泣いた顔を誰にも見せたくなくて用具庫の裏に引っ張りこむ。
「何するんですかこんなとこで!離して!離せよ!」
「何もしない!何もしないから話だけ聞いてよ。俺はαだけど絶対絶対誓ってキミには何もしない」
「α……」
「今までだってΩに手を出したことなんてないし、匂いにあてられたこともないし……あ、ひどい花粉症なんだ俺!匂い全然わかんねぇのよマジで!」
安心させるように二メートルほど距離を取る。ちなみに花粉症ではない。
もしかしたら過去にこんなふうに、望まない相手から乱暴な扱いを受けたことがあったのだろうか。そうでなくてもΩという性的に搾取されやすい立場の彼に対して、考えなしで粗暴な扱いをしてしまった。
「あのさ、野球部入ってよ。中学で終えるのはもったいないって」
「……でも俺、中三の夏から発情期が起こるようになったんです。それで中学最後の大会、抑制剤飲んでたのにその時だけ効かなくて、結局試合の途中でダメになって……そのせいでチームは……」
片瀬くんの頭の中では、その時の悔しさ不甲斐なさ仲間への申し訳なさが蘇ってしまったはずだ。
αの俺にはわからない。でもわからなくても彼の助けになりたい。
「ちょっと違うけど、俺も野球やめそうになったことあるよ」
濡れた瞳が見開かれこちらを向いた。
「小学生の時から少年野球やっててさ、うちそんなに金持ちじゃないからそん時は親戚とか知り合いとかのお下がりのグローブとかもらったりして使ってたんだけど、中学で野球部入ろうって頃にはそれもボロボロになってきてたしサイズも合わなくなってきてたし……でも金で苦労してる親に買ってってなかなか言えなくてさ。周りのみんなはそこそこいいの使ってるし」
片瀬くんは俺の唐突な自分語りを意外と真剣に聞いてくれている。
「そんな時に同じ少年野球のチーム出身の先輩が『安く買えるとこ連れてってやるよ』って昔ながらの小さいスポーツ用品店に連れてってくれて。一応お年玉ぜんぶ持って行ったんだけど、店長が型落ち品みたいなのをアレもコレもタダでやるよって一式持たせてくれたんだ。それでまぁ単純なんだけどまた野球やるぞーってなって、二ヶ月遅れで中学の野球部入部した」
片瀬くんは戸惑った顔をしている。やばい、この体験談は適切でなかったかもしれない。
「そんな感じで俺も一度は野球やめかけてたから、片瀬くんにも諦めてほしくないっていうか……」
だんだんしどろもどろになってきた。
「俺だって……俺だって、野球続けたいです。体力的にキツいかもしれないけど限界までやってみて、本当に本当に無理になった時に諦めたい。でも俺には発情期があるから……それで他の人たちに迷惑かけるのはもう嫌なんです」
「……それは、発情期で体調悪くなってプレーに響いたりすることか、それとも片瀬くんのその、フェロモン的なものに俺たちがあてられないか心配ってことか、どっち?」
「……どっちもです」
なるほど根深い。いや、前者は俺にはどうにもできないけれど、後者はもしかして意外と。
「……わかった。もしだけどさ、俺らの中で片瀬くんに何かしようとする奴がいたら、俺がそいつボコボコにしてやる」
「え?」
「俺なんかで良ければ……片瀬くんを守るよ」
それは口にしてみて、ここまでの半生で最高にクサいセリフだと気づいた。
才能ある片瀬くんに野球を続けさせてあげたい。儚く可憐な彼がずっと平穏に過ごせるようそばで守りたい。今は涙の乾かないでいる彼の笑う顔を見てみたい。
出逢ってまだ数時間。それなのに俺は既に片瀬塁斗という少年への感情の大きさに振りまわされている。
「そんな、俺Ωだけど守られるとかそういう質(たち)じゃないし……せ、先輩にも迷惑ですから……」
初めて『先輩』と呼ばれた。胸の奥がくすぐったい。
「名前言ってなかったよね。俺、二年の鵠沼涼。キャッチャーなのはさっき言ったっけ?片瀬くんと一緒にやりたいし、片瀬くんの球、受けてみたい」
部室棟の建物の隙間から西日が差し込んでいる。片瀬くんはどんな顔をしているだろう。きっと綺麗であろうその顔を直視する勇気はなかった。
「……あの、ありがとうございます。うまく言えないけど、先輩のおかげでちょっとだけ勇気出てきました。……明日からよろしくお願いします」
「えっ」
彼はたしかに小さく、よろしく、と言った。
「まずは仮入部してみます。……やっぱりいろいろ不安はあるんですけど、迷惑かけないように頑張りますのでよろしくお願いします、えっと……鵠沼、先輩」
お疲れ様でした、と彼は礼儀正しく一礼をして去って行った。俺と彼とが一応は先輩後輩になったということでもある。
舞い上がるほどの気持ちは、手応えのありそうな新入生を勧誘できたからなんて理由ではない。
俺と片瀬塁斗が先輩後輩になって、やがてそれを飛び越えようとしていく。そんないくつかの季節のはじまりのはじまりの時。
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