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フェロモンに勝てない【涼視点】

ゴールデンウィークなんて関係なく俺たちは練習に明け暮れていた。 それでも連休明けには塁斗が、 『家族が俺を置いてけぼりで旅行に行ってきたのでお土産です』 とお菓子を配っていた。 いただきーと我先にとそれに手を伸ばす部員たちを、塁斗はにこにこと見ていた。息子の仲間たちにもお土産を買ってくる気の利いた親。塁斗の嫌味たらしくない穏やかな気品の理由は、きっとその育ちにある。 夏の匂いがする。気温も次第に上がってきた。 「お前らちゃんと水分取っとけよー」 顧問は職員会議が長引いているのか、なかなかグラウンドに現れない。しんどさを我慢していそうな一年生を中心に声かけをしておく。一応俺は主将なので。 そう言えば塁斗の姿も見えない。トイレにでも行っているのだろうか。近くにいた三年生の外野手に訊いてみる。 「さぁ?見てないけど」 「そっか……ちょっと俺捜してくるわ。何かあったらよろしく」 昨日の練習後、塁斗は 『今発情期来てるんですけど、今回は抑制剤ばっちり効いてるみたいです!』 と言っていた。 昨日は昨日、今日は今日だ。発情期を毎回報告されるわけでもないが、俺は年がら年中塁斗の身体が心配だった。野球が思うようにできなくなるのが可哀想なんじゃない。αの俺には計り知れない苦労に一生耐え続けなければならないのが不憫でならなかった。 さて捜すならとりあえずは部室だろうと思い、部室棟へ向かった。 「あ、鵠沼主将……」 その前にいたのは、背だけひょろっと高い一年生の大和(やまと)だった。 「どうした?こんなとこで」 「す、すいません!サボってるわけじゃないんです。今から鵠沼主将のとこに報告に行こうとしてたところで……」 「俺に何か用だった?」 大和は少し慌てているようだった。性別的にはαだと聞いているが、内面はやや気弱でただのお人好しな奴だ。 「あの、片瀬先輩が急に具合悪くなっちゃって……」 「塁斗が!?」 「はい。それで今部室で鶴間に付き添わせてます。あ、あの鶴間はβですけど、身体もちっちゃいしそんな……先輩相手に悪さとかできるような奴じゃないんで信用してやってください!……片瀬先輩があまりにもしんどそうだったからひとりにするの心配で……」 鶴間というのは小柄で愛嬌のあるキャラで、大和と同じ一年生。ふたりは親友のような立ち位置だ。塁斗も鶴間のことは弟のように気に入って可愛がっている。 「ん、わかった。とりあえず今先生もいないし俺が様子見るわ」 「え、でも主将は大丈夫なんですか……」 αの俺が塁斗に惑わされないか心配しているのだろう。しかし大和は無理には止めてこないので、さっさと部室のドアを開ける。途端、むわりと嗅いだことのない強烈な芳香が全身を襲う。ああ、これが塁斗の。 「主将!」 座り込んでいた鶴間が振り向く。 その奥、簡素で硬い長ベンチに塁斗は横たわっていた。 「りょお、せんぱい……」 舌足らずな声。目は潤み、頬は赤らんでいた。 塁斗の発情期の症状を見たことは何度かあった。それでも抑制剤が完全には効いていない、少し身体にしんどさがあるという程度のものだった。見た感じは風邪やインフルエンザのだるさと似ているようだと勝手に思っていた。 それが今は、強くαを惹きつけるフェロモンを放ち、表情で、声音で、不本意なんだろうがオスを誘ってしまっている。 「主将、どうしましょう。片瀬先輩すごくつらそうで……」 鶴間まで泣きそうな顔をしている。 「だいじょーぶだよ、鶴間くん……」 こんな時でも後輩への気遣いを忘れない塁斗。 とりあえずこの場を収める責任は主将の俺にある。 「鶴間ありがとな、あと大和も。ふたりは練習に戻っていいよ。もし先生が戻って来たら、俺は塁斗を家に送るついでに早退したって伝えて」 えっ、と声をあげたのは鶴間で、声もなく驚き目を見開いたのは塁斗だった。 「あ、えっと……主将はα……ですよね?」 鶴間がおどおどと尋ねてくる。 「だから俺が塁斗の匂いに惚れちゃうとでも?ないない!ぜーったいない!だって俺、慢性鼻炎だもん」 「あー……」 鶴間は何とも言えない顔をしていた。 「涼せんぱい……、おれ、ひとりで帰るから大丈夫です……」 「だめだめ!お前んとこの親共働きだからすぐには迎え来れないんだろ?あとはー……あ、タクシーもダメ!運転手がヤベー奴だったらどうすんだ」 つまり残る選択肢は。 「慢性鼻炎の俺に頼りなさい」 「……はい」 まぁ慢性鼻炎は大嘘なんだけれど。そういえば花粉症って嘘ついたこともあったような。 塁斗は電車通学だ。学校の最寄り駅から各駅停車で四駅。 帰宅ラッシュにはまだ早い時間帯で空いていたから助かった。それでも座席にくったりともたれ熱い息を吐く塁斗を、ちらちらと好奇の目で見る人たちもいた。見た目にはわからなくてもフェロモンは誤魔化しようがない。やっぱり俺がついていなければ良くないことになっていたはずだ。 初めて訪れた塁斗の家は、俺のそれより数段立派な一軒家だった。人気のないそこに緊張しながらお邪魔する。ここまでで大丈夫と言いながら玄関で崩れ落ちるから、二階の自室に入るのも見届ける。 学習机の上にいつか好きだと言っていたチョコレート。昔プロ野球を観に行った時に隣にいた父親がキャッチしてくれたというホームランボールは大切そうに飾ってあり、整理整頓が行き届いていると思いきや床には何冊かの野球雑誌が無造作に落ちている。 塁斗の生活空間を見られて何かぐっと胸に迫るものがあったが、それどころではなく彼を安静に休ませなくてはならない。 「塁斗、ほらバッグ下ろして。着替えられるか?」 「はい……」 のそのそと部屋着に着替えるのには一応目を逸らして、ベッドに入ったのを察してからようやく振り返る。適度に距離は取っておく。 「せんぱい、今日はすみませんでした……」 「いいよ。今日のことは別に気にしなくていいから。とりあえずはゆっくり休め」 「おれ……どうして、こんな……なんで、なんで、おれはΩなんかに生まれてきたんだろ……」 布団を目元までかぶった塁斗の声は弱々しかった。 「いつも……涼先輩にも今日は一年のふたりにも、迷惑かけてばっかりだ……」 「少なくとも俺は迷惑だなんて思ったこと一度もねぇよ。つーか、塁斗がいないと俺は野球やってても全然楽しくねぇと思う」 「ほんとに……?」 「ほんと」 塁斗が布団から顔を出しこちらを向いた。 目元が濡れていた。泣きそうなのだろうか。腕の中に囲って慰めてやりたい衝動にかられる。 フェロモンは部室にいた時より強まった感じがしている。正直俺も苦しい。一瞬でも自制心の糸が切れてしまったら、塁斗が嫌がるのなど無視して乱暴に襲いかかってしまいそうだ。 「そういえば、涼先輩って鼻効かないんですか?」 「え?」 「さっき慢性鼻炎って言ってたじゃないですか、部室で」 塁斗も聞いていたのか。つまり塁斗のフェロモンに惑わされることはないという設定にしたかったんだけれど、この嘘は貫き通せるものか……。 「それってさ、嘘ですよね」 「あぇ?」 思わずまぬけな声が出た。 「そうでもしないと俺を家まで送れないし、ひとりで帰すのも心配だし。それであんな嘘ついたんですよね」 「はぁ……そーだよ、嘘だよ。塁斗にはお見通しなんだな。なーにが慢性鼻炎だよバカみてぇ……だっせぇ嘘ついたわ」 「先輩が俺のこと何でもわかってくれてるのの半分くらいは、俺も先輩のことわかってるつもりです」 そう言って塁斗は赤らんだ顔のままはにかむ。理解してくれているイコール好ましく想ってもくれている。塁斗も俺と同じような気持ちでいてくれている。そんな短絡的で根拠のない妄想に、単純な俺の胸はぐぅと甘苦しく疼く。 「ってことはさ、先輩」 「うん?」 「今俺と一緒にいて平気なんですか?俺、匂うでしょ?」 『におう』と言うとまるで臭い物のことを言っているように聞こえるが、まさかそんなはずもない。俺も塁斗も、この香りは紛れもなくオスを狂わせるフェロモンだと理解している。 「あー……まぁなぁ……正直ちょっとしんどい、かな」 「そっか……」 今だけは塁斗の思っていることがわからなかった。大切な後輩で、相棒で、そんな塁斗を性的な対象として意識してしまった俺に幻滅しただろうか。それとも逆に、図らずも俺を誘惑してしまう己を憎んだだろうか。 「あの、無理しなくていいんで……もう帰っても大丈夫ですよ」 「でも……」 「俺ならひとりで平気ですから。今日、母親早番って言ってたから、たぶんあと一時間くらいで帰ってくると思うし」 俺にはΩの発情期の苦しみはわからない。けれど、塁斗が強がりで気を遣いがちな質なのは知っている。 「いいよ。やっぱ心配だし、塁斗の母さんが帰ってくるまでいるよ」 「いや……うちのお母さん、連れてきた友だちとかにめちゃくちゃ絡んでくるから多分迷惑かけちゃうんで……」 「あー……そういうタイプの母ちゃんか」 でもきっと塁斗の母親なら美人なんだろうな、ちょっと見てみたいかも、なんて思ったり。うちの母親なんて化粧っ気もからきしないし。 「じゃ、こうしませんか?俺今だいぶ眠くなってきたんで、俺が寝落ちしたら帰ってください」 「へー、発情期って眠くなんの?」 「うーん……そういう時もあります」 何だかんだそれが折衷案になり、塁斗が眠りにつき次第俺は帰ることにした。 そうして塁斗のフェロモンのこもった部屋で、しばし無言の時間が流れる。 塁斗はだいぶ体調が落ち着いてきたのか、目を閉じて深く呼吸を繰り返している。 俺はそれをチラチラと見ながら、落ちていた野球雑誌をめくってみたり。憧れのプロ選手の特集記事がある。しかし強い香りを放つ塁斗の存在、ふたりきりという状況に気を取られすぎて、一行も頭に入ってこない。 「……塁斗、寝た?」 「……」 返事はなかった。そろそろとベッドに近づいてみる。 「マジで寝てる?」 俺を早く帰すために狸寝入りのひとつやふたつ余裕でキメる奴だろう。人差し指で頬を軽く突いてみる。しかし反応はない。 その心地よく柔らかな弾力に、張り詰めさせていた強固な糸が急速にゆるんでいく。 もっと触りたい。俺はきっと塁斗のことが好きだ。ずっと好きだった。守りたいとか可愛いとかそんな範疇はとうに越えていた。だからキスしたいし、本当はもっとキワドイことだって何度も想像していた。 今なら、塁斗が寝ている今なら。 こんなチャンスはもう巡ってこないかもしれない。ノーアウト満塁で強打者に打順がまわってくるくらいの好機。そういうのはそう何度も起こることではないんだ。 至近からただよう塁斗のフェロモンが鼻腔をくすぐり、いよいよ脳を狂わせた。何かに操られたように顔を近づけ、塁斗のかすかな吐息が唇にかかる。 最後の躊躇いの後、ついにそこに触れてしまった。 我慢できなかった。俺は塁斗の唇に自分のそれを重ね、やわらかなそこをなぞるように食んでいた。 時間にすればほんの二秒足らずだろう。唇を離し、塁斗がまだ眠っていることに安心した。それでもその安らかな寝顔を見たら、汚れのない彼に何て身勝手なことをしてしまったんだろう、動揺で目がまわりそうになった。 エナメルのスポーツバッグを引っ掴み、慌てて塁斗の部屋、そして家を飛び出してきた。無施錠で出てきてしまって悪かったとようやく思い当たったのは、次の日の朝になってからだ。 その夜、俺は妄想の中で塁斗とセックスしまくった。 『りょおせんぱい……はァ……きもちぃ……も、だめぇ……!あん、あッ、イッちゃうぅ……イッちゃうからぁ……!』 可愛く健気に俺を求めてほしい。俺にだけ、俺にだけ乱れた姿を見せてほしい。 恋心と性欲と独占欲はきっとどうにも分離しようのないセットだ。身勝手にしたキスで、身勝手に何もかもを思い知る。

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