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とっくに恋に落ちていた【塁斗視点】

薄暗い雲から雨がまっすぐに落ちてきていた。六月、校舎の窓から見えるのは毎日そんな鬱々とした風景だった。 「塁斗、どうした?しんどくなったか?」 校舎内での走り込み中、階段の踊り場、窓の外を見て立ち止まっていた。そんな俺に声をかけてきたのは藤沢先輩だ。 「あ、いえ、ちょっとだけ休憩です。すぐ戻ります。あと……晴れたら外で練習できるのになって思って」 運動部で大した実績のないうちのような公立高校には、室内でのトレーニング設備などあるわけもない。 「だよなー。屋内で走り込みするのも意味なくはないけど、やっぱ塁斗とか俺とか投手陣は投げて投げてなんぼだな」 最近藤沢先輩は俺のことを下の名前で塁斗と呼ぶようになった。 『俺滑舌悪いからカタセって呼びづらかったんだよね』 そんなことを言って。 「辛かったら言えよ。そういう時主将の鵠沼ばっかりアテにしてんじゃん。俺も一応塁斗の先輩だし、投手陣としての仲間じゃん?」 「ありがとうございます」 「いやー、俺もさぁ、このジメジメで中学の時に痛めた古傷がちょっと傷むことあってさ。まぁお互い無理せず行こうぜ」 頼ってくれと言ってくれる藤沢先輩の優しさがありがたかった。 俺は古傷などはないものの、発情期、それから元々のスタミナ不足でやはり練習がキツいと感じることがあった。でも今までのように涼先輩にそれを訴えることがしづらい。そもそも顔を合わせることすらできるだけ避けてしまう。 長身の藤沢先輩の影に隠れてみたり、他の部員といつも以上に絡んでみたり。そうして涼先輩から声をかけられるのを回避する。 けれどそうして俺が誰かと話している時に、涼先輩からのどこか悲しげな視線を感じる。 俺は気づいていた。 先月、俺が寝たフリをしている時に涼先輩にキスされたのを。 練習後、一年生の大和くんにマックに誘われた。 「あ、俺と片瀬先輩だけじゃないんで!後から鶴間も来ます!」 大和くんはαだ。気を遣いすぎなくらいの後輩キャラなので、Ωの俺とふたりきりになりたいわけではないんだと過剰にアピールしている。その必死さが面白いし、彼は以前俺が発情期で具合が悪くなった時に鶴間くんと協力して助けてくれた、本当にいい奴なんだ。 そういえばそうだ、その日、俺は涼先輩に家まで送ってもらってキスをされた。 涼先輩はこっそりしてみたつもりなんだろうが、俺はしっかり気づいていた。先輩はフェロモンにあてられただけなんだろうけれど、どうしても気まずくて、あれ以来ぎこちない態度を取ってしまう。 あのことを思い出したいのか、思い出したくないのかよくわからない。わからないまま、指先で唇に触れていた。 ポテトもドリンクもLサイズのセットにさらにもうひとつバーガーを追加した大和くんのと、セットのポテトをサラダに変更した俺の。 昨年の大会の雰囲気などについて尋ねてくる大和くんに答えてあげながら食べ進めていると、 「お疲れ様です!」 声変わりしきっていない高めのこの声。鶴間くんだ。 「あ、鶴間くんお疲れー……あ、え?」 「あ……塁斗もいたんだ……」 その背後から別の気まずそうな声。涼先輩だ。なぜか鶴間くんは、今俺があまり会いたくない人・涼先輩を伴っていた。 四人掛けのテーブル、鶴間くんが大和くんにひっつくようにその隣につくので、必然的に俺の隣に涼先輩が座る。 後から来たふたりも注文した品を各々に飲み食いし始め、周りから見れば男子高校生たちが楽しげに放課後を過ごしているように見えるだろう。でも俺の心中は穏やかではない。たぶんきっと、涼先輩も。 「すげーじゃん鶴間、ちゃんと主将連れてきた!」 大和くんが鶴間くんを小突く。 「主将ー、聞いてくださいよぉ。大和の奴、俺主将を誘うなんて畏れ多くてできないよぉーとかビビって、俺に押しつけたんですよ」 鶴間くんに暴露され大和くんは慌てている。 「ち、違うんすよ!別に主将が恐いとかじゃなくて、その、めっちゃリスペクトしまくってるんで直接は声かけづらかったっていうか……」 「そんなビビんなくていーよ、俺なんかに。つーか、ビビらせてたんなら俺が悪いわ」 涼先輩のこういう優しいところ、好きだなと思う。 一年生投手志望コンビは『うちらの黄金バッテリーとマック食ってる!』とはしゃいでいた。 「俺、片瀬先輩みたいな手堅い投球ができるピッチャーになりたいです。あとついでに先輩みたいな爽やかイケメンになりたいんですけど、どうしたらいいですか?やっぱ整形っすかね?」 鶴間くんが冗談混じりに言う。 「あはは、俺なんて全然……」 「でも大和の憧れは豪速球の藤沢先輩だもんなー?」 そうして今度は大和くんをイジる。 「はぁ?おい、片瀬先輩の前で失礼だろ」 大和くんは、同じ投手として目の前の俺を立てるべきだと空気を読んでいる。そしてまた少し慌てている。 「いいよ、俺に気ぃ遣わないで。大和くんは背も高くてこれからどんどんパワーもついてくだろうし、きっと藤沢先輩みたいな力でねじ伏せる系のすごいピッチャーになれるよ。俺もほんとは藤沢先輩みたいになりたかったもん」 俺に褒められたことで照れたように目を伏せる大和くんを見て、そういえばとハッとした。 俺は同時に藤沢先輩のことも褒めてしまった。彼のことを褒めると涼先輩の機嫌を損ねてしまうのだ。 横目で盗み見た涼先輩は無表情でコーラを啜っていた。俺にはフォローの仕方が見つからない。 しかし鶴間くんは気の利く子だ。涼先輩の不機嫌さに気づきこそしないが、会話をまわそうとしてくれる。 「キャッチャーの主将から見て、藤沢先輩の投球ってどうですか?やっぱ球速いし、ミットにバシュゥッて収まる時の音とかすごいですもん」 ああ、でもその質問はわりと地雷なのかもしれない。 「ああ、アイツね」 アイツ呼ばわり。俺はごくりと生唾を飲み込む。 「アレはただ球速速いだけのノーコン。こっちの出してるサインにもいっつも首振ってくるし。そんで好きに投げさせたらバカみたいに打たれるし。マジでやりづらい」 「いやーめっちゃ言いますねぇ……。やっぱ、三年生同士だといろいろバチバチなアレがあるんすかね……」 一年生コンビはすっかりドン引きしてしまっている。 俺だってまさかここまで藤沢先輩を酷く言うとは思わなかった。ふたりがバッテリーを組んでプレーしているのを見る機会は存分にあったが、強者同士の迫力に気圧されて、そこにある不協和音に気づけていなかったのかもしれない。 下級生の憧れで気さくで優しい涼先輩。それが藤沢先輩のことになるとこんなにも冷たくなる。そこには少なからず、いや確実に俺が関係している。 あの時、涼先輩は俺にキスをした。発情期のフェロモンに惑わされただけなのかもしれない。でももしそうじゃなかったら?男同士ではあるけれど、俺への恋愛感情があったとしたら? それで俺と藤沢先輩の仲の良さに嫉妬しているとしたら? これで何もかも全部つながってしまう。たぶんこの憶測は大きく外れていることはないだろう。 「ごめんな、変な話。ほら、ナゲット一個ずつやるから。今の話はオフレコで」 そうしてまたいつもの後輩思いでカッコイイ涼先輩に戻る。 「わー、ゴチです!」 「ありがとうございます!」 一年生コンビが涼先輩のナゲットに手を伸ばす。 「ほら、塁斗も」 「え?」 「やるよ」 最後の一個が入った紙のボックスをこちらに向けてくる。 「あ、いただきます」 涼先輩は不機嫌でも無表情でもなかった。俺にうっすら笑いかけてくれていた。 こんなことですらちょっと嬉しいなんて。だって俺も涼先輩のことがきっと恋愛感情で好きだ。この想いはもう否定しようがない。 キスされて気づいた。あからさまに嫉妬されてきづいた。 だから苦しいんだ。せっかくもらったラスイチのナゲットも味がしない。 今の薄ら笑いも無理やりに作った表情だろう。俺と藤沢先輩のことを何かおかしな方向に誤解して。 店の大きな窓から見える空は相変わらず薄暗い。 こんなモヤモヤしたままで、涼先輩との最後の夏を迎えたくなかった。 六月も末。梅雨はまだ明けないが、県予選の一回戦は月が変わればもう目前だった。 顧問は正式に俺を先発投手として起用すると言ってくれた。 それなのに、俺は今までにないほどの酷い発情期の症状で、登校することすらできていなかった。 身体が火照(ほて)る。特に下腹部の奥が疼いて、ねっとりとした液体で下着がぐちょぐちょに濡れる。 ずっと布団にくるまって、無意識に腰が揺れてしまうのと漏れ出る甘ったるい呻きを堪えている。 身体に力が入るはずもなく、野球をするなんて到底無理だ。 この発情期を越えれば一回戦には出られる。でも勝ち進んでいって、その先でまたこの症状に襲われたら? 病院へは行った。主治医は、 『もしかして意識しているαが近くにいるんじゃない?それに誘発されてる可能性があるね』 と言っていた。母親には診察室の外で待っていてもらっておいて良かった。 だってそんなの、確実に涼先輩のことだ。 嘆いていても大会の日程は近づいてくる。 それなのにどうにもならない身体。原因は俺がΩで、αの涼先輩に恋をしてしまったこと。 どうしよう、どうしよう。 悩んでいるフリをしながら、わりと早い段階で思いついていた策があった。ただそれはかなりハイリスクで。 あとは決心だけだった。 六月の最後の日。 正念場でもハードワークにならないよう、この日だけは部の練習がオフになることは前々から確定していた。 『お疲れ様です』 『今日の放課後、もし予定なかったら俺の家に来てくれませんか?』 『できればお願いしたいことがあります』 三つに分けてメッセージを送った。相手は涼先輩。 『わかった』 『授業終わったらすぐ行く』 返信はすぐに来た。 さあどうしよう。どうしようもない。やるしかない。

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