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12 夜の庭

「待って、お願い、行かないで! ケットシー」  オリヴィエは黒檀のような毛並みが闇夜に溶けるその姿の中で唯一の目印、白銀に耀く片方の長い尻尾を見失わないように追いかけた。  陰鬱な晩餐後、兄からはいつも通り眠る前までのひと時を共に過ごそうと誘われた。  オリヴィエは今にも吹き出しそうな煮えたぎる怒りに燃えていたが、顔では花のように優雅に微笑んでそれを辞した。きっと兄にとっては普段通りの愛らしい弟に見えていたはずだ。  勿論お休みのキスをするまで兄の傍にいたかったが、そういうわけにもいかなくなった。明日にでも取り掛かろうとしていたことを、今すぐに始めねばならなくなったからだ。  食事が終わるとすぐ湯浴みをして形だけは夜着に着替えると、兄にお休みの挨拶をしてからオリヴィエはケットシーを探すために城の中へと駆けだした。 (なんで僕がアスタロト大叔父上の花嫁にならないといけないんだよ)  頭の中を占めぐるぐると回り続けるのは義母から言い渡された自らの運命。 (好きでもない相手にいやいや抱かれて、長生きしろっていうの?)  瞬時に沸いた憤りよりも心を凍えさせる哀しみが勝ったのは、最愛の兄がオリヴィエがアスタロトの元へ赴くことを願うような発言をしたからだ。 (兄さまの馬鹿。幾ら長生きしたって貴方が傍にいない人生なんて、僕には何の意味もない。それなら兄さまの腕の中で今すぐ死んだ方がずっとましだよ)  大叔父上の元へ行くことを拒んだら、もうこの城にオリヴィエの居場所はない。そうなったら一人で生きていかねばならなくなるが、魔界にも人間界にも半端者のオリヴィエの居場所などそうそう見つかるはずもない。 (どうせ兄さまとも引き離されて、カシスみたいな者たちの手に掛かって慰みものにされて死ぬのなら、僕はどんなに卑怯な手を使ってだって生きることと、兄さまを諦めたくない)  何度も滲んでくる涙をその都度ぐいっと拭い、漸く探していたケットシーのふらりと揺れた尻尾を中庭への渡り廊下で見つけた時には心臓が口から出るかと思うほど興奮し、鼓動が耳の奥まで鳴り響いたほどだった。 「はあ、はあっ。見つけた。ケットシー」  ケットシーは見た目はまるでそこらへんにいる猫と変わらないが、ぴんと長い尻尾が二本ある。彼は優雅に尻尾を揺らめかせ、城の中庭にある『迷いの薔薇苑』の入り口に来ると、背を伏せるように伸びをしている。 「うごかないで、ケットシー。話しがあるの」 「しつこいにゃあ、王子様。オレに何んの用があるんだにゃ」  あの気まぐれなケットシーが口をきいてくれただけでもチャンスが回ってきたと思った。 「待ってて、今そっちに行くから」  面倒くさそうな声を出されたが、やっとここまで辿り着いた。  このまま『迷いの薔薇苑』の中にでも入っていかれたらたまらない。オリヴィエ一人では二度と抜け出すことが叶わなくなる。  砂嵐を避ける魔法の結界に覆われた中庭には出られるものの、月すら見渡せぬ闇夜だ。  小走りで駆け寄るオリヴィエは不意にまた低級妖魔に足を取られた。  幼いころから魔力の少なめのオリヴィエは、一人でいるとこんな風に城の中でも下級の魔物にすら意地悪をされる。 「あっ!」  長い夜着の裾にも足が縺れてしまい、引っかかり前につんのめるようにして転がりかける。しかし幸いにもオリヴィエが薔薇苑に引かれた石畳に身体を打ち付けられる前に、誰かの腕の中に抱きとめられた。 「オリヴィエ。花嫁になる大切な身体に不用意に傷をつけてはいけないにゃあ」  大人の男のベルベットのように滑らかな声。ケットシーは耳や二本が奔放な動きを繰り返す尻尾はそのままに、しなやかな身のこなしをする青年の姿に変化しオリヴィエを見おろす。そしてそこは猫のままの髭をぴくぴくっと動かした。  彼が鋭い爪が飛び出させ指先を指揮棒のように一振りしただけで、耳をつんざく嫌な悲鳴をあげて妖魔は一瞬で燃え上がり、あとはまた静かな闇夜に戻った。 「ケットシー! 城中探したんだよ」  オリヴィエは裸の上に直接辛子色のベストを着たケットシーの腕から、勢いよく身を起こすと必死の形相で迫った。 「お願い。僕と兄様を、あの部屋まで案内して。今すぐに」 「あの部屋? あの部屋ってどの部屋のことにゃ?」 「しらばっくれないで。僕がずっと探していたあの部屋だよ。ケットシーにだって何度も聞いたでしょ? 『ハーゲンティ様の隠し部屋』」 「ふうん、そんなこともあったかにゃあ」  ケットシーの瞳は不思議だ。互いの顔すら薄闇にまみれるほどに暗いのに、金と銀のその瞳だけきらきらと浮かんで光って見える。そして彼が自分の味方をしてくれるのかくれないのかもまるで感情が読み取れない。焦れたオリヴィエはケットシーの逞しい胸を両手で強く叩いた。 「お願い。今度こそあそこに行かないと……。僕は、兄さまと離れ離れにされちゃうんだ」  叩くのをやめると今度は必死な様子で襟ぐりを掴み上げ、縋るように額をケットシーの胸に押し当てた。 「お願いだよ、ケットシー」 「お前、あの部屋がどんな場所なのか知ってるのかにゃ?」 「……知ってる」  オリヴィエは耳まで真っ赤に染めて頷くと、ケットシーの両方の尻尾から交互にぺしぺしと尻を叩かれた。

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