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第47話 消えない過去

 名津の所属する大学は、見事NCAAトーナメントの出場権を獲得した。その3回戦には、名津は今までの功績が認められ、初めてスターターとして起用された。  相手の圧倒的な高さに苦戦しながらも、名津はシュートファウルを誘い、フリースローを決めた。何度も何度もシュートをねじ込み、チームの士気を鼓舞するプレーをし続けた。だが、名津がベンチに退くと流れが悪くなり、エリート8を逃してしまった。  しかし名津はコート上で輝きを放ち、その実力をしっかり発揮できたと思う。ニュースでも名津の活躍が放送され、俺は心底うれしかった。  4月になると、シアトルを散々濡らした雨が鳴りを顰めてきた。そして、名津はオフシーズンに入る。練習はあるものの、プレイングシーズンよりは会える時間が増える。だが俺の方はというと、相変わらず研究が忙しく、あまり名津のアパートへ行けずにいた。  いや、レポートなどは名津のアパートで書けなくはない。実は、行きたくても行けない事情がある。  首裏を撫でると、薄いタートルネックのシャツが指に当たる。そして、2月のあの雨の日を思い出す。ルークに首裏を噛まれた、あの日のこと。その噛み痕が、4月になった今も消えていないのだ。  もうそろそろタートルネックを着られなくなる。そうなると、この噛み痕が顕になるだろう。いや、そもそも名津と会って抱き合えば、すぐにバレてしまうことなのだが……。  ルークに噛まれた後、名津に対して発情していたので問題ないと思っていた。名津もそう思っているはずだ。なぜ痕が消えないのか分からない。ルークと番になってしまったのだろうか…?  ルークに会って確認しなければならないが、会いに行くのが怖い。発情したらどうなるのか、抑制剤は効くだろうか、そもそも会って何を話せばいいのか。  同じことを何度も考え、悩み、答えを出せずにまた同じことを悩む。この止まらないループの中に何カ月もいる。 「そろそろ、名津に言うべきだろうな……」  名津に言ったらどうなるだろう。驚くか、怒るか、悲しむか、ガッカリするか……とにかく喜ぶことはまずないから、やはり言いたくないと思ってしまう。  ふとスマホを見ると、『今日、練習終わったらそっちに行ってもいい?』と、名津から連絡が入っていた。俺がアパートに全然来ないので、名津は痺れを切らしたようだ。 『悪い。課題が山積みで、しばらく会えそうにない』  先延ばしにしたところで、いずれは名津にバレるだろうが、今は名津と対面する覚悟がない。断りのメッセージを送る以外に選択肢はなかった。  スマホを机に置くと、再度課題に取り組み始めた。最近は研究室と自習室、そして自室を行ったり来たりしている。一見地味だが、自分にとっては充実した毎日だ。  しかしふと、名津に会いたいと思ってしまう。バッグのファスナーを開けて、名津にもらった合鍵を取り出す。目の前に掲げると、小さく揺れてかわいらしい。  噛み痕さえなければ、毎日でも行くのに——  ため息をつきながら、ベッドに横になってその鍵を見つめた。そのとき、玄関の扉が開く音がした。 「ただいまー」  優心の声が玄関の方から聞こえる。近くのスーパーに夕飯の材料を買いに行ってくれたのだろう。もうこのまま、夕食の時間まで寝てしまおうか。  そう思って目をつむると、名津の声が耳に入ってきて驚いた。 「優心さん、これここでいいですか?」 「うん、それは冷蔵庫に入れなくて大丈夫。ありがとう!」  名津は優心の手伝いをしているようだ。『しばらく会えない』とメールしたのに、その直後に家に来るなんて、名津の行動力に驚くと同時に呆れもした。普通、そんなすぐに俺の家に来ないだろう。俺の気持ちとか考えないのか、あいつは。  ……なんて怒りながらも、口元が綻び始めている。俺は少し、いやかなりよろこんでいる。 「りょう、今忙しい?」  ベッド上で喜びに悶えていると、戸を叩く音と名津のいつもの声が聞こえた。なぜか分からないが気恥ずかしく、声を出せない。  返事をしないでいると、扉が開く音がした。俺は瞼を閉じ、寝たふりをした。先ほどのメールで『しばらく会えない』と言った手前、どんな顔をすれば良いか分からない。  名津の足音がベッドに近づいてくる。ベッドの軋む音と同時に、名津のにおいが鼻をくすぐる。あの、心が落ち着く陽だまりのようなにおい。至近距離まで近づかないと分からない、名津の微かなにおい。これはきっと俺しか知らない。  名津は、ベッドの足元に丸まっていた毛布を掛け、少し伸びた俺の前髪を撫でた。そして、額に触れるか触れないかくらいの口付けをして、静かに部屋を後にした。  名津の唇が触れた場所が熱くなり、抱かれた後のように全身が火照る。どんなに激しいセックスよりも、名津を強く感じる。  名津はいつも俺を受け入れ、愛を示してくれる。名津を信じて、全てを打ち明けるべきだ。  目を開けて身体を起こし、俺はリビングへ向かった。

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