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第3話「新作、同性愛モノ…ですか…」
「はぁ…同性愛モノ、ですか…。」
瑞樹はコーヒーを一口飲み、カップを置いてから独り言を呟くくらいの小さな声でぼそりと言った。
「そうです。最近は多様性の時代ですし、同性愛者のストーリーも増えて映像化されてる作品も多くあります。つまり、需要があるってことなんですね。なので、あの甘く切ない恋愛小説をお書きになられる桜庭みずき先生が書かれた同性愛のお話は、きっと読みたい読者が多いと思うんです!」
目を輝かせ力説するのは、一か月前に、一世を風靡した人気恋愛小説家、桜庭みずきの新しい担当編集者になった河野優香。
デビュー当時から長年担当してもらっていた担当者がこの春退職し、桜庭みずきの新しい担当者は、まだ入社して数年しかたっていない新人の河野へと突然変わった。
突然の変化にどう新しい担当者と上手くやっていくべきかとまだ悩んでいる瑞樹だが、そんなことはお構いなしに、河野は会うたびに「新作を書きましょう!」と急かしてくるのでそろそろ本当に気が滅入ってしまう。
瑞樹自体も、そんなことはわかっている。新作を書きたくないわけではない。書けるものなら今すぐにでも書きたい。だが、書きたい気持ちだけでいい作品が書けれるほど、執筆活動は簡単ではないのだ。
そして、瑞樹自体、鬱々とした気持ちがもう何年も晴れないまま、ペンを執ることすらできなくなっていた。
桜庭みずき、本名は青山瑞樹。
十九歳という若さでデビュー作『青、そして春。』がベストセラーとなり、一躍人気恋愛小説家として世に名を轟かせた。が、その後の作品はというと、何を書いても全て泣かず飛ばず。『青、そして春。』は本当はゴーストライターが書いたものだったんじゃないのか。という酷い悪口までもSNS内では飛び交っていた。
最後に出した5冊目の本はもう3年前になる。それもまったく売れてないが…。
この3年間、何度も新作を書こうとした。書いては消して、書いては消して。そうしているうちに瑞樹はどんどん自分が見えなくなってしまった。
そして、いつからか、ゴーストライターとしての依頼原稿なら嘘のようにすらすらと書けるのに、自分の作品だと思うと、1文字も書くことができなくなったのだ。
まったく売れない新刊、SNSでの批判コメント、それらが頭から離れず、完全に自信を喪失してしまっていた。
「その…同性愛モノって、どうなんでしょうかね…。ちゃんと理解できてない人がそこに触れるのは、なんというか、ちょっと違うような…。」
やんわりと断ったつもりだが、担当者は首を傾げた。
「そうでしょうか?別に、同性愛者の話を書いている人みんなが、同性愛者ってわけじゃないですよ。資料ならちゃんと私が用意しますし、一度そういう方向でアイデア出してみるのはどうでしょうか?」
「どうでしょうかって…。」
一応、お伺いを立てるような口調ではあるが、有無を言わさない担当者の態度に嫌気がさし、つい溜息が漏れる。嫌がっているのをもっと汲み取ってほしい。前の担当者ならそういう繊細な部分まで気を配ってくれていたのに…。
イライラゲージが溜まっていく。どうせ何を言っても俺が、「はい。」と言うまで折れないんだろうな…。
瑞樹はとりあえず一刻も早く、この場所から立ち去り1人になりたかった。
「わかりました、とりあえずアイデア出してみます。」
瑞樹の言葉を聞くと、河野は、ぱぁっと笑顔になり、「楽しみにしていますね!」と言った。
ただお前の趣味だろ。自分の趣味に俺を使うな。
ケッと心の中で悪態付きながら、担当者にぺこりとお辞儀をし、出版社を後にした。
頭が重い。鬱々とした気持ちがさらに重く沈んでいく。
恋ってなんだ、好きってなんだ、自分は何が書きたいんだ。
ぐるぐると長年答えが出ないままの疑問が頭の中で周り続ける。今の重たい気持ちの瑞樹にとって、太陽の光さえも眩しくて、不愉快な気持ちになる。
「…腹へったな。」
ぐぅっと小さく鳴ったお腹をさすり、家の近くにあるいつものファミレスへと向かった。
店内に入ると、いつものテーブルへ迷うことなく向かう。この席をいつも選ぶのに特にこれといった理由はない。初めてこのファミレスに来た時、一番最初に座った席がここだった。ただそれだけの理由だ。
しいて言うならば、窓の外が眺めやすいのが、唯一この席だけなことが、他の席とは違ういい点かもしれない。
店員を呼び、オムライスとドリンクバーを注文してから、パソコンを開き、原稿用紙ソフトを立ち上げる。そして、キーボードに触れることなく、瑞樹は窓の外を見つめた。
何度この席でぼーっと外を見つめ、無駄な時間を過ごしたのだろうか。その無駄にしてきた時間があれば、何本作品が書けたのだろうか。考えても仕方ない過ぎ去った時間のことを考えては、暗い奈落の底へと落ちていく。
十九歳という若さで世間からもてはやされ、自分の実力を勘違いしてしまった。早まったのだ。小説家になんかならずに普通に就職すればよかった。
そもそも新作なんか書いても、今更昔の人となった桜庭みずきの作品を待ってくれている人なんているのだろうか。
もう、全部やめてしまいたかった。好きだったはずの小説がどんどん嫌いになっていくのが怖かった。
窓の外に、肩を並べて楽しそうに下校している高校生カップルが見えた。その眩しくキラキラ輝いた幸せそうなオーラに、心底嫌気がさした。
「みーずきさんっ!」
聞きなれた声で名前を呼ばれ、はっと我に返った。
「へへっ、打ち合わせだったんですよね?お疲れ様です。ドリンクバー頼んでるのに全然取りに行かないから持ってきましたよ。いつものコーラでよかったですよね?」
コトン、と、当たり前のようにコーラが注がれたグラスが置かれた。瑞樹はじっと無言で、まだしゅわしゅわと炭酸が弾け飛んでいるコーラを見つめる。
「あれっ!?もしかして今日はコーラの気分じゃなかったですか!?取り替えてきましょうか!?」
「ううん、今日もコーラ。」
「ですよねー!あっぶねー!ミスったかと思ったじゃないですか。…瑞樹さん?どうかしたんですか?」
コーラを見つめたままぴくりとも動かない瑞樹の異変が心配になり、愁は、座っている瑞樹の目線に合わせるように、その場にしゃがみ込み、下から覗き込むようにして瑞樹の顔を見た。相変わらず、何を考えているのかわからない。ただ、わかるのは、今日も綺麗だということだけ。
「なんでわかるの?」
「へ?」
やっと口を開いたかと思ったら、主語が抜けていて何の話かさっぱりわからず、愁は思わず間抜けな声をだして聞き返す。
「なんでコーラだってわかったの?」
「いや、だって、瑞樹さん毎回同じ物しか食べないじゃないですか。ハンバーグオムライスとドリンクバー
でコーラ。食後はコーヒー。しかもいっつもこの席で。さすがに覚えるでしょ。…っと、多分そろそろ料理できる頃なんで持ってきますね。」
いそいそと急ぎ足で厨房へと愁が戻っていく。その背中を見つめながら、瑞樹は少しだけ、冷たい奈落の底に、ほんのりと温かい日がさしたような気持ちになっていた。
常連客の顔や、お気に入りメニューを覚えているのは従業員としての仕事の一環でしかない。でも、自分の存在について悩み、自分の事なんて誰も必要としていない、見てもいない。と思っていた時に、たった1人でも自分のことを見てくれている人がいるのだと思うと、救われた気がした。
ましてや、瑞樹には頻繁に会う親しい友人はおらず、人付き合いといえば、出版社の人達くらいだ。自分に対して興味関心を向けてくれる存在なんて近くに1人もいないため、愁が準備してくれたこのコーラに心底喜びを感じた。
「お待たせいたしました。ハンバーグオムライスです。ごゆっくりどうぞー。」
湯気がでている熱々のハンバーグオムライスを持って颯爽と現れた愁は、お皿を机に置くとすぐ厨房へ戻ろうと瑞樹に背を向けた。
瑞樹は咄嗟に、その背中に声をかけた。
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