5 / 52

第5話「俺に恋を教えてほしいんだ」

店長に体調を心配されながらも、シフト通りの二十二時にバイトを上がり、バックヤードで制服から私服へと着替える。 瑞樹さんに私服を見られると事前に知っていれば、この前買ったばかりの大人っぽい春物のテーラードジャケットを着てきたのに…。と思いながら、高校時代から着続けているデニム生地のフード付きジャケットを羽織る。姿見で頭のてっぺんからつま先まで、変なところがないか隈なく確認をしてから、バックヤードを出た。 ドリンクバーのみを注文し、コーラをグラスに注いでから瑞樹の向かいの席に座る。愁は、緊張で目の前に座る瑞樹の顔はまともに見れず、膝に置いた手が震えていた。 「…で、そのぉ、俺なんかと話したいって、どのようなお話でしょうか…?」 「話って言うか、これはお願い事って言った方が正しいかもしれないな。」 「お、お願い、ごと…ですか。」 コーラが並々と注がれた愁のグラスの中の氷が溶けて、カランっと音を立てた。 瑞樹さんが俺にお願いごと…?一体どんな内容だろうか。愁はまったく見当がつかなかった。口をぽかんと開けて、頭の上にハテナを浮かべている愁の様子が、瑞樹の目には、あまり乗り気じゃないように映ったらしく、申し訳なさそうな表情になる。 「突然お願いごとなんかされても困るよね。ごめん、嫌なら全然断ってくれてもいいから。」 「いやいやいや!!!全然!困ってなんかないですよ!むしろ超ウェルカムです!俺なんかが瑞樹さんの役に立てるなら、もう全然なんでもやるんで!なんでも言ってください!」 瑞樹との交流を深めるチャンス。ここで逃すわけにはいかない。 目の前から去ろうとしたチャンスを慌てて掴むかのように身を乗り出して、愁は言った。その声は結構な声量だったようで、斜め前のテーブルでわいわいと楽しそうに食事をしていた男子高校生グループが驚いた顔で全員愁の方を振り返った。 「あ、ありがとう…。けど、声量はもうちょっと控えて欲しいかな…。」 「すみません、ついテンションが上がってしまって…。」 ごほんっと咳払いを一つし、気持ちを落ち着かせるために、ごくごくとグラスいっぱいのコーラを一気飲みする勢いで飲む。ぱちぱちと炭酸が喉を刺激する感覚がバイト終わりの疲れた体に爽快感をもたらした。 「その、頼み事の内容なんだけど…。俺に恋を教えてほしいんだ。」 「っ!?ぐぉっほ!うっ、げっほ!」 「しゅ、愁!?」 爽快感から一転。瑞樹の一言で、コーラが気管へと流れ込んだせいで、苦痛へと変わる。 胸と喉の中間あたりに突っかかって咳込んでもなかなか出ていってくれない。目の前でペーパーナプキンを数枚握り、あわあわとしている瑞樹に、咳込みながらも辛うじて、大丈夫だと伝えると、ぜぇはぁと肩で息をしながら呼吸を整える。 「すみません…ちょっと、取り乱してしまいまして…。」 瑞樹から受け取ったペーパーナプキンで、口横から零れ出たコーラを拭く愁。 何回瑞樹さんの前で醜態をさらせば気が済むんだ…!あーもう!と自分の顔面に一発グーパンチをお見舞いしてやりたい気分だが、これ以上異常行動を繰り返せば、さすがにそろそろ瑞樹さんに本気で気持ち悪がられると思い、ぐっと堪えた。 「そ、その…こ、ここ恋を教えて、欲しいと、言うのは…。」 「あぁ。実は、もう二十五歳だというのに恥ずかしい話なんだが、俺、恋をしたことがなくて…。だから、 恋愛感情というものがまったくわからないんだ。でも、友達もいないし頼れる人もいなくて…。そこで、さっき愁と話してぴんっと来たんだ。愁なら恋愛経験豊富そうだし、俺に恋愛というものを教えてくれるんじゃないかって。」 目をキラキラと輝かせ、期待の眼差しで愁を見つめる瑞樹。 愁はというと、あまりにたくさんの情報量が一気に流れ込んできたため、目をぐるぐると回していた。 瑞樹さんが俺と恋愛!?これは夢か幻か――!?まるで、恋愛シュミレーションゲーム、もしくはラノベでありそうなラッキー展開が現実世界に起こっていいのか!? 現れてもいない3つの選択肢が愁の目には浮かんで見えていた。 1、 俺でいいなら。2、実は俺も恋愛経験ないんです。3、絶対俺のこと好きにして見せます。 愁は頭を抱えた。 ここで選択をミスしてしまえば、即バッドエンドになりかねない。とりあえず3番は絶対なし。選択肢は1と2に絞られた。瑞樹との距離をさらにぐっと縮めるには1を選ぶのが確実だ。 だがしかし、愁は瑞樹と違って、人を好きになる気持ちは持っているが、瑞樹と同様、愁も誰かと付き合った等の恋愛経験がないのだ。瑞樹が期待しているような恋愛を、瑞樹に与えることができる自信が愁にはなかった。意気揚々と振る舞ったとて、すぐにボロが出て、後々がっかりされ失望されることを恐れて愁はさらに頭を悩ませる。 「愁…?やっぱり嫌ならいいんだぞ。ごめんな、俺が変なこと言ったせいで…。バイト終わって疲れてるだろ。もう帰るか。」 ノートパソコンを閉じ、トートバッグへ入れると、いそいそと立ち上がり席から離れようとする瑞樹。 ――まずい!このままではせっかくのラッキー展開のイベントが流れてしまう! 愁は咄嗟に瑞樹の手を掴んだ。 「俺の事、好きになってください!」 勢いで口から出た言葉。それは、浮かび上がったどの選択肢にも当てはまらない、ステータスやら好感度アップやらを全て取っ払った、愁の心の奥底から出た、本心だった。 いきなり手を掴まれ、大きく目を見開いて驚いた顔のまま愁を見つめて固まる瑞樹。気まずい沈黙が2人の間に流れた。

ともだちにシェアしよう!