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第11話「実は俺が・・・」
舞台挨拶の日までに、ちゃんと愁には自分の口から伝えよう。
大丈夫、最初は驚くだろうけど、でも、すぐに元に戻る。いつもみたいに他愛もない話をして、二人で笑い合って、気兼ねなく話せる関係に戻るに決まっている。
ずっと黙っていたのは、騙していたわけじゃないって言えば、きっと、愁ならわかってくれるはず。
そのはずなのに――
「はぁー…。」
食後お決まりのドリンクバーのコーヒーが並々と注がれたグラスの前で、盛大な溜息を瑞樹はついた。
窓の外を見ると空はどんよりと曇っていて、今の自分の心境と類似して見えた。
あれから一か月。愁に会う度、何度も自分の本当の正体を打ち明けようと試みたが、いざ言うとなると怖気づき、今日まで誤魔化し続けてきた。舞台挨拶は明日。伝えるなら、もう、今日しかチャンスは残っていない。
「また何か悩んでる顔してるー。」
どんよりと灰色の雲を一瞬で蹴散らしてしまうくらい、明るい声が空から降ってきた。だが、今日ばかりはその明るい声も、瑞樹にとってはより一層灰色の雲で心が覆われてしまう原因となっていた。
「愁。」
「最近は窓の外見ながら、悩むこと減ったなーって思ってたのに。何かあったんですか?」
愁に言われ、瑞樹は確かに。と思った。確かに言われてみれば、瑞樹はここ最近、厳密に言えば、愁と仲良くし始めてから、前のように窓の外をぼんやりと物思いにふけた顔でみつめることがなくなっていた。
他人に言われなければ気づきもしなかった自分の事を、愁にずばりと当てられ、瑞樹は驚いていた。本当に愁は他人のことをよく見ている、と。正しくは、“他人”ではなく、“瑞樹限定で”なのだが。
「…いや、なんでもない。ただ、雨が降りそうだなって思ってみていただけだ。」
コーヒーをすする。随分前に入れたコーヒーは、店内のクーラーの寒さによって、だいぶぬるくなっていた。
「あー、確かに。予報だと十八時から降るって言ってたんで、そろそろ降るかもですね。天気悪いとお客さんも少ないから超暇です。」
バイト中だというのに、お客さんが少なくて暇すぎるから構え!と言わんばかりに、瑞樹のテーブル横にべったりひっつくようにして立った状態で居座ろうとする。
今しかない。瑞樹はそう思った。
言う。言うんだ、今日こそ。大丈夫、シュミレーションは何度も脳内でした。大丈夫、伝えても必ず愁はいつもみたいに接してくれる。実は、俺が桜庭みずきなんだ。実は、俺が桜庭みずきなんだ。実は、俺が…俺が…。
緊張で水分を失いカラカラに乾いた喉に、ぬるいコーヒーを流しいれ、潤わしてからすぅっと息を吸った。
「しゅ、愁。」
愁の顔を見上げると、きょとんっとした顔で瑞樹を見つめていた。
「ん?なんですか?」
「あの、えっと…しゅ、愁に言いたいことがあって…。」
だんだんと尻蕾になり、“実は俺が桜庭みずきなんだ”という台詞も、心の奥へ戻ろうとしていく。俯き、ごにょごにょとなかなかはっきり喋らない瑞樹を不思議に思いながらも、愁はまったく急かすことはしなかった。
何か言いにくいことなのだろう。それでも、瑞樹は頑張って自分に伝えようとしてくれている。
それなら、少しでも話しやすくすべきだ。そう思った愁は、その場にしゃがみ、ソファに座る瑞樹より低い位置まで顔を落とすと、覗き込むようにして瑞樹の顔を見上げた。
「もぉー、そんな溜められたらどんな話か気になるじゃないですかぁ!なになに、面白い話ですか?瑞樹さ
んの話、聞かせてくださいよ。」
いつもの変わらない笑顔でへらりと笑う愁。
この笑顔とさよならしたくない。
瑞樹がそう思うと同時に、伝えるはずだった言葉は、ひゅんっと心の奥へと引っ込んでしまった。そして、今まで通り、自分が桜庭みずきだということを隠し通せる一筋の光が差し込んだ。
「…明日ってさ、桜庭みずきの『青、そして春。』の映画上映初日だよな。」
「そうなんですよ!って言っても、多分映画用に短縮されるからかなり原作にアレンジ加えてると思いますけどね。」
「そうだろうな。…近くの映画館では舞台挨拶があるらしいけど。愁は、行くのか?」
ごくりと唾を飲む。よく考えれば、愁が舞台挨拶を見に来なければ、瑞樹が桜庭みずきだとバレることはないのだ。
SNS等に上がる公式アカウントの集合写真にはSNS担当者に直接断りを入れて、自分の部分だけ加工をして顔をわからないようにしてもらえば済む話。むしろ、端から写らないという手だってある。
舞台挨拶の詳細に、原作者である桜庭みずきも登壇するという情報はどこにも載っていなかった。何故ならば、シークレットゲストとして出演する予定の為、桜庭みずきが登壇することはどこにも記載されていないのだ。
ならば、愁が舞台挨拶へ来る可能性も低い。頼む、舞台挨拶には行かないと言ってくれ。心の中で強く願う。
「あー、舞台挨拶ですか。行きませんよ。」
瑞樹の心の中に広がっていた曇天が、瞬く間に晴天へと変わっていく。
「い、行かないのか?本当か?」
「はい。舞台挨拶って出演者のファンが基本行くものですよ。確かに、原作ファンも行ったりはするんでしょうけど、俺は行かないですね。てゆーか、あぁいうのって倍率高いからどっちにしても普通取れないもの
ですよ。」
「そ、そうか!行かないのか!ははっ!」
嬉しすぎて思わず、高笑いをしてしまった。どんよりと沈んだり、上機嫌に笑ったり、情緒不安定な瑞樹を心配そうな顔で愁は見つめる。
「愁、お会計よろしく。」
「えっ、もう帰っちゃうんですか?」
伝票を愁に差し出すと、愁は目尻を下げ、まるで捨てられた子犬のようにわかりやすくしゅんっとしおれる。今日もいつも通り、バイト終わりに瑞樹のテーブルへ行き、あれこれといろんな話をしようと思っていた愁は、なんとか引き止めたくてなかなか伝票を受け取らない。
「ごめんな。明日ちょっと朝早くに用事があってな。今日は早めに帰らないとだめなんだ。」
そう言われてもまだ、うぅ…と一瞬渋った愁だったが、瑞樹に迷惑はかけたくない。渋々伝票を受け取ると、レジへと向かった。いつもより遅いスピードで会計を終わらせると、店の外まで愁は見送ってくれた。
「何拗ねてんだよ。」
「拗ねてないですぅー。ただせっかく面白い話用意してたのになぁーって思ってるだけですぅー。」
「ほぉー、自分で面白い話って言ってハードルを上げるってことは、よほど面白い話なんだろうな。じゃあ次会った時に聞いて大笑いでもさせてもらおうかなー。」
「…瑞樹さん、性格悪いですよ。」
じとっとした目で愁が瑞樹を睨むと、瑞樹はくすくすと笑った。
「連絡先知ってんだから、いつでも話くらいできるだろ。土曜日なら暇だから、そんなに話したいなら電話かけてきてもいいぞ。」
「電話してもいいんですかっ!?」
ぱぁっと嬉しそうな表情に変わる愁。あぁ、と瑞樹が頷き、返事をすると。さっきまでの、拗ねて、なんとか少しでも長く引き留めようとしていた大きい二十歳の子供はどこへやら。るんるんっと周りに音符が飛んでいるのが見えるくらい上機嫌になり、にこやかな笑顔で瑞樹に手を振る。
「それじゃ、瑞樹さん。気を付けて帰ってくださいね。土曜日!電話するんで!」
ぶんぶんと、大きく手を振る愁に向かって、瑞樹は胸元で小さく手を振り返すと、背を向けて帰路につく。曲がり角でもう一度、ファミレスの方を振り向くと、愁はまだこちらを見て大きく手を振っていた。ふっ、と小さく笑いながら角を曲がる。
「バイト中なのに、何してんだか。給料泥棒だぞ。」
本人には届かない注意を小声で言う。
よかった、これでまた、愁と今まで通りの関係でいられる。ほっと胸を撫でおろす。
ぽつり、と肌に水分を感じた。雨だ。一滴、二滴と、暗い空から落ちてくる滴が増え、瑞樹は慌ててバッグの中にしまってあった折り畳み傘を差した。
雨粒は次第に大きくなり、ぼつぼつと傘に当たる音が大きくなっていく。
現実世界の空は、何か辛いことがあったかのように激しい雨が降りしきっていたが、瑞樹の心は現実世界の空とは真逆で、青い空が広がり、穏やかだった。
きっと、この大雨は、俺のこの一か月間の悩みを洗い流すために降ってくれているんだ。俺の為に。
なんて、都合良い解釈をしながら家へと帰る瑞樹。まさか、この現実世界の空模様が、二日後の自分の心模様を映し出しているとは知らずに。
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