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第37話「どんな理由でもいい。お前が好きでいてくれるのなら。」
都会の駅前は、平日の十時でも人通りが多い。スーツで身を包みスマホで電話をしながら急ぎ足で歩くサラリーマン。
大きなスーツケースをゴロゴロと引きながらわいわいと楽しそうにはしゃいでいる若者。学校をサボって制服姿でうろついている学生など。いろんな人で溢れかえっている。約束の時間から既に十五分経過している。
瑞樹は、人混みを掻き分けながら走って駅の入り口へと向かっていた。
昨夜、愁が作ってくれたカレーを一人寂しく食べた後、今日の為に早く寝ようと、いつもより二時間も早くベッドに入った。
目を瞑り、頑張って寝ようとしたが明日が楽しみすぎてまったく寝れる気配がなかった。ベッドの中で何度も寝返りを打ちながら瑞樹はふと、小学生の頃、遠足が楽しみすぎて毎回遠足前日の夜は寝れなかったことを思い出した。
結局、遅い時間まで眠れず起きていたせいで、朝起きれずに遅刻するという流れがお決まりの流れになっていた。
だが、明日は絶対遅刻したくない。足を小さく折りたたみ、バサッとタオルケットを頭のてっぺんまで被る。必死になって寝ようと思うのが逆効果になっているのかもしれない。そう考えた瑞樹は、思考を違う方へ向かせるように集中する。
そういえば昨日、このベッドの上で一緒に寝た時は、自分でも驚くほどすんなりと眠りにつけた気がする。愁の早い鼓動を聞いていたら、いつの間にか寝ていて朝になっていた。
「愁の鼓動…早かったな。」
瑞樹は囁いた。昨晩のことを思い出して、同じベッドの上に愁がいる妄想をすれば、昨日愁に触れられた背中が暑くなる。
ドクドクと心臓は早まるが、何故か安心した気持ちにもなる。『瑞樹さん。』脳内で、自分の名前を呼ぶ愁の声を何度もリピート再生すれば、そこに愁がいるような気がして誰もいないベッドの空白にそっと手を伸ばした。
「愁…。俺のどこが好きなんだ?」
サアッと背中の熱が引いていくのがわかった。
瑞樹の質問に対する返答は、当然ながら返ってこない。瑞樹は気づいたのだ。愁が自分を好いてくれている理由を知らないということを。
愁と出会ってからの数か月間の記憶を必死になって遡る。思い返せばいつも、愁は桜庭みずきを褒めていた。恩人だの、素晴らしい作品を作るだの、大好きだの…。青山瑞樹として好きと言ってくれたことは一度もなかったのだ。
小さな不安の種は、芽が出るとその後は驚くほど凄まじいスピードで成長していく。一発屋と呼ばれ、世間から数年間ずっと酷評を叩きつけられたことにより自信を喪失してしまった瑞樹なら尚更。
不安の種が隣の土へ繁殖していく。
大学二年の時にいた彼女のことを思い出した。
デビュー作の『青、そして春。』が大ヒットした数か月後に告白され、断る理由もなかった為なんとなく付き合い始めた。一年後、二作品目の『初めましてを何度でも』を出版した数か月後のことだった。
「ねぇ、別れよ。だって、有名小説家でかっこいいって思って付き合ってたのに、全然違うじゃん。」
別にその子のことは好きでもなんでもなかった。なんとなく付き合っただけで、本音を言えば、小説のネタになるかもしれない、と思って付き合っていただけだった。
だが、世間からチクチクと棘のある言葉を毎日大量に浴びせられ、自己肯定感が酷く下がっていた時期に、面と向かって彼女から鋭い刃を含んだ言葉を突き付けられ瑞樹は心に大きな傷を負った。
隠して忘れたふりをしていた傷口が再びじくじくと痛み、じんわりと血を滲ませる。自分の取り柄なんて、小説を書くことくらいしかない。でも、その小説すらまともに書けない。ヒット作品を出さなきゃ自分の良いところなんて、自分の価値なんてひとつもない。
ずっと晴れていた心が、再び鬱の感情に支配されていく。暗くてじめじめしていて、どんより曇って重たい。
久しぶりの重たく辛い感情に小さく震え怯えると同時に、この感情を一瞬で吹き飛ばしてくれる愁という存在の偉大さに気づく。
恋愛感情の移り変わりは激しいと、どこかのネット記事で読んだことがある。きっと愁も同じだ。このままヒット作が作れないままだと、いつの日か元カノのように俺を捨てる。『面白い小説を書く桜庭みずきが好きで、かっこいいと思ってたのに…。』愁にだけはそんな言葉言われたくない。
きっと、愁にそう言われてしまえば、二度と立ち直れなくなる気がする。ガバッとベッドから起き上がり、タオルケットから脱皮する。
「書かなきゃ…。」
そう言った瑞樹の声は、悪夢に魘されているかのような苦しい声だった。
パソコンと向き合い、とにかく書き進める。その文章が良いか悪いかなんてわからないけれど、とにかく書かなきゃいけないと思った。愁が自分を好きでいてくれる理由が“面白い小説を書くから”ということだけなのが本当の事を言えば悲しかった。でも、どんな理由でもいい。愁が目の前からいなくならないのであれば。
どんな理由でもいい。自分の事をずっと好きでいてくれるのであれば。どんな手を使ってでも、愁を手放したくないと思った。
気づけば朝になっていた。どうやら椅子に座ったまま寝落ちしていたらしい。
時計を見て瑞樹は飛び起きた。九時三十分。いくつ歳を重ねても、楽しみなことがある前日は眠れずに結局寝坊して遅刻するというお決まりの流れは治せていなかったらしい。
急いで顔を洗い、歯を磨きながら服を着替える。遅くなるという一言だけ、愁にメッセージを送って、瑞樹は家を出た。
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