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第42話「違う、違う違う違う!俺の名前を呼んでくれ!」
ベンチから腰を浮かせ、「そろそろ帰ろう。」と提案しようと口を開いた時だった。
愁が、瑞樹の手を掴んだ。
「俺、桜庭先生と出会えて、本当に良かった。あなたは俺の恩人です。新作の執筆、頑張ってください。ずっと…ずっと、大好きですから。」
違う…。違う違う違う違う!!!俺じゃない。桜庭みずきは俺じゃない。俺は青山瑞樹だ。なんで“桜庭先生”って呼ぶんだよ。いつもみたいに“瑞樹さん”って呼んでくれ。桜庭みずきとは会えてよかったのに、俺と会えたのは別にどうでもいいのかよ。
もし、高校生の時に、桜庭みずきじゃなくて、青山瑞樹として会ってたら、愁の恩人は俺になってたのか?
そしたら、愁は俺のことを大好きって言ってくれたのか?桜庭みずきじゃなくて、俺を、青山瑞樹として見てほしい、知ってほしい、好きになってほしい。なんで…なんでこんなに苦しいんだ――
どこが痛みの核なのかわからないくらい胸の痛みは激しく、全身がズキズキと痛み悲鳴を上げている気がする。頭も、心も、汚い色をしたペンでぐちゃぐちゃに書き殴られ、何が何だかわからない状態で苦しい。
それなのに、愁と繋ぎ合ってる手だけが、ぽわっとオレンジ色の温かく優しい光を感じ、こんな心境の中でもひどく安心した。
「えっ、瑞樹さん…あのっ…。」
困惑した表情で、目線をきょろきょろと何度も左右へと揺らす。言いたいことがあるならはっきり言えよ。
と心の中で瑞樹が思っていると。愁は心配そうな目でちらりと瑞樹を見た。
「なんで泣いてるんですか…。」
愁の言葉で、瑞樹は気が付いた。自分が涙を流しているということに。
頬を伝う冷たい滴が、顎の先から落ち、ぽたっと腕で弾けるのを合図に、瑞樹の目から、次から次へと止まることのない涙が溢れ出る。
自分でも何故泣いているのかわからないのに、愁を困らせたくなくて、何が違うのか言っている自分でもわからないまま「違うっ、これは違うっ…!」と何度も繰り返した。
瑞樹を落ち着かせようと背中を摩る愁の優しさが、かえって逆効果となり、瑞樹は小さな嗚咽を漏らしながらさらに大粒の涙をぼたぼたと落とした。
「わかんないっ、俺…俺…っ!」
服が皴になるほど強い力で愁の腕を強く掴み、まだ整理できていない頭で必死に言葉を絞り出そうとする。
「大丈夫ですよ。最近根詰めて書いてたから、今日少し休んで、緊張の糸が途切れたんですよ。無理しないでください。明日の仕事に響いたら良くないんで、そろそろ帰りましょう。」
瑞樹の体を労わるように体に手を添えベンチから立たせると、なんだか気まずい雰囲気のまま二人は下山した。
愁は瑞樹をマンションの下まで送ると、「それじゃあ、また。」と言って、来た道を戻っていった。曲がり角で愁が見えなくなるまで、瑞樹はマンションの入り口にずっとたたずみ、小さくなっていく愁の背中をじっと見つめた。
愁は一度も、振り返らなかった。
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