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第4話

「百均のライターごときにいちいちコーヒー代を負担していては、割に合いませんよ。第一、年下にごちそうしてもらうのは抵抗があります、気持ちだけいただいておきます」 「つべこべ言わずに恩返しさせろ」  伝票を奪い合い、その拍子に指がからんだ。サボテンにでも触れたように紺野がぱっと手を引っ込め、いきおい妹尾はテーブルの(へり)に太腿を打ちつけた。 「押し問答を繰り返していてはキリがありませんね。今日のところはお言葉に甘えます」  ため息交じりに伝票をテーブルの向こう側にすべらせると、紺野はガッツポーズをした。  ともあれ、コーヒーの()が馥郁と漂う茶房は居心地がいい。ジャズが低い音量で流れ、店主が新聞をめくる音が眠気を誘う。ランチがお勧めの店、好きなスポーツ、営業先でのこぼれ話……。  終始、紺野がリードする形で話が弾んだ。といっても、いつまでも油を売ってはいられない。また、と手を振って店先で右と左に別れた。  その夜、妹尾は風呂あがりに発泡酒のプルタブを引いた。川に面した六畳ひと間のアパート。そこが妹尾の城だ。 (けっこう気さくで、なのに押しが強い。あの性格は営業マン向きだ……) 〝㈱ミノア食品第二営業部主任 紺野英生〟とある名刺を蛍光灯に翳した。名刺には顔写真が添えられていて、紺野は澄まし顔で写っている。営業マンという共通点があるとはいえ、異業種の人間と話すのは久しぶりのことだった。意見を交換できる、という点では有意義なひとときだった。  窓辺に座って缶を傾けた。小さなベランダの向こうを屋形船が行き交い、提灯の明かりが水面(みなも)に反射する。  紙風船をふくらませて、掌の上で弾ませた。それは別れぎわに紺野からもらったものだ。お得意さまに配るノベルティグッズ、だそうだ。   紺野が売り込んで回っている商品は、菓子のセットだという。残業中に小腹がすいて、だが社外に買いにいく時間がない場合につまむのにちょうどいい、よりすぐりの菓子をオフィスに置いてもらうべく交渉する。店頭販売をしていない菓子が含まれているのがミソで、社員が食べた分の代金はあとでまとめて請求するシステムだとか。  ──富山の薬売りと同じ方式だ。重宝されているんだが、競合相手が多くて新規の得意先を開拓するのが大変だ……。  などと、ぼやいたわりには朗らかな声が耳に甦る。犬に喩えるならばドーベルマン。紺野ならば、気むずかし屋のお偉方とも互角に渡り合って、自社に有利な形で契約にこぎ着けるのだろう。そういう印象を受けるほど生気にあふれた男が、神頼みならず煙草に願いを託す。 (ギャップ萌え、っていうやつかな……)  見かけによらない、といえば自分もそうだ。柔和だ、と評されることが多いが、それは買いかぶりで、どす黒いものが心の底に澱んでいる。よそゆきの笑顔、という仮面をかぶるのが得意なだけにすぎないのだ。  紙風船を放りあげた。落ちてきたところに掌を差し出すと、指にぶつかったはずみに革張りのソファのほうまで飛んでいった。  六畳間の三分の一の面積を占めるそれは、いわば負の遺産だ。侘び住まいにそぐわない高価なソファを一緒に選んだ女性(ひと)は妹尾を捨てて、よりによって妹尾の親友と結婚した。ふたりの間には赤ん坊も生まれた、と風の便りに聞いた。  激情に駆られて、右手に持った缶を窓枠に叩きつけた。発泡酒が吹きこぼれてスウェットパンツを濡らし、我に返った。 「キレる年齢(とし)か? みっともない……」  わざと声を立てて嗤った。眉間に皺が寄るはしから、思い出し笑いに顔がほころぶ。  コーヒーの生豆は淡い緑色をしている。産地によって特性が異なり、それぞれの持ち味に応じた火加減で焙煎して、粉に碾いて丁寧に湯をそそぐ。そういった工程を経て、初めて極上のコーヒーを味わえる。  薀蓄(うんちく)を傾ける紺野、というオマケはいささか鬱陶しいものがあったが、店主の誠実な仕事ぶりを目の当たりにすることができて実り豊かな一日だった。 (今度会ったら、おれがおごる番だ……)  今度? 紺野にまた会いたいと望んでいるのか? 変に心がざわつくやりとりを反芻しているうちに、微睡みにいざなわれていた。

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