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第6話

「近日発売の絵本を店長に預けてあるので、よかったらどうぞ。会社的にも個人的にもお薦めで、たぶん、好みだと思いますよ」   帰りぎわにレジに寄って話しかけると、女性店員はそっぽを向いて、ブックカバーを折りはじめた。 (そういえば、このあいだ食事に誘われたのを断ったっけ……)  多忙を口実にしたのだが、知らず知らずのうちにきつい言い方になってしまったのかもしれない。つぶらな瞳が印象的な可愛い()、だと思う。大半の男はふたつ返事でオーケーする、とも思う。  ひるがえって妹尾は、これっぽっちも心を動かされない。愛だの恋だのには興味がない。あんなものは脳のメカニズムに狂いが生じたがゆえの、にすぎないのだ。  ともあれ丁重に(いとま)を告げた。ふと、精悍な(おもて)が脳裡をよぎった。たかが百円ライターをあげたくらいのことで、妹尾を恩人と呼ぶ。と、いうふうに義理堅い紺野なら、同じ断るにしても角が立たないように冗談にまぎらせるだろう。  暑すぎず寒すぎず、外回りにはもってこいの季候だ。通りを行き交う人の服装に茶系統のものが目立ち、それに季節のうつろいを感じた。  妹尾は受け持ちの書店詣でをつづけ、どの店でも〝えいえんの原っぱ〟を売り込むとともに、陳列台にささやかな細工をほどこして回った。  用談中は、よけいなことを考えずにすむ。忌まわしい記憶を封じ込めたパンドラの箱が開きそうになっても、鍵をかけられる──。  苦い涙をコップ数杯分も流したすえに学習した結果だ。  信号待ちの間にスマートフォンをタップした。着信履歴をチェックしていると、そこに縁結びの神、パワースポット、という会話の断片が風に乗って聞こえてきた。 (神頼みか。おれなら、おねがい煙草に町の本屋さんの存続を願うな……)  おばあちゃんが店番をしている昔ながらの書店は、今や絶滅危惧種だ。たしかにネットを利用すれば、読みたい本があっという間に手元に届く時代だ。だが、実際に書店に足を運んで、お目当てのもの以外の本のあらすじを読んだり、帯の惹句を買う、買わないの判断材料にする点に面白みがあるのだ。衝動買いに走る本の虫がいなくなれば、業界全体が先細りだ。  空が茜色に染まりはじめた。昼食を食べはぐれていたな、と鳩尾をさする。今日のノルマは八割方こなした。ゆえに、ひと息入れてもバチはあたるまい。  妹尾はあたりを見回した。ところが立ち食い蕎麦屋の前を素通りして、先日の茶房に足が向く。おねがい煙草のことを思い出したのがきっかけだとしても、現金な話だ。小走りで道を急ぐ自分に、苦笑がこぼれた。  十字路を右に曲がったときだ。裏通りの中ほどで木枠の扉が開き、すらりとした人物が姿を現した。  紺野だ、と心臓が跳ねたせつな、自動販売機の陰に隠れていた。  奇遇ですね、と挨拶をして、コーヒーをごちそうになった礼を言うのが自然な場面で紺野を避ける真似をする。

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