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第8話

   紺野が顔をあげた。光の加減だろうか、ドア口に妹尾の姿を認めたとたん、その双眸にうれしげな色が宿ったように見えた。カップを手に奥まったテーブルに移ると、向かいの席へと顎をしゃくる。  同席するもの、と頭から決めてかかられるのは癪にさわるが、別の席に座るのも大人げない話だ。指示に従い、挨拶はしたものの、馴れ合う義務はない。妹尾は、椅子に腰かけると同時にメニューを顔の前に立てて壁を築いた。  とはいえ、すんなりした指がめまぐるしく動いて、ひとつながりになったふたつの輪っかをひっくり返したり、ねじったりするさまに好奇心を刺激されると、我を張るのも限界だ。 「知恵の輪とは、なつかしいですね」 「このまえ紙風船をあげたよな。あれと同じ粗品シリーズ。頭の体操にもってこいだって熟年層に好評なんだが、やりだすとハマるな……よし、外れた」 「十五分も格闘してやっと、ですけどね。舞台裏を明かすと」  店主が、注文をとりにきがてら妹尾に耳打ちした。紺野は中指を突き立てて応戦した。それからネクタイをゆるめながら、妹尾に向き直った。 「年下相手に『です』に『ます』で堅っ苦しい人だな。休憩中も仕事モードじゃ、こっちまでくたびれちまうだろうが」 「勤務中ですし、性分です」  妹尾は、殊更ぶっきらぼうに答えた。うつむきがちに、おしぼりのビニール袋を破る。紺野は、いわゆる目力が強い。その炯々と輝く目で見つめられると、心理テストの被験者として相対しているようで落ち着かない。  咳払いひとつ笑顔をこしらえると、 「マスターと呼吸(いき)がぴったりですね。古くからの常連なんですか」    紺野は首を横に振り、ひい、ふう、みい、と親指から順番に折った。 「今日で五、六回めってとこか」  六回、と妹尾は目を丸くした。その程度の短いつき合いで、昵懇(じっこん)の間柄というような親密な空気が生まれるものなのか。紺野は、自分より遙かに営業マンとしての資質に恵まれている。彼なら無名の作家の著作でも、ダイヤモンドの原石だ、と言い切って万単位の予約をとってくるくらいの芸当をやってのけるに違いない。  きっと彼のように世渡り上手な男が、人生においても恋においても勝利者になるのだ。  ひがんでいる暇があるなら紺野を講師に話術に磨きをかけるほうが、よほど建設的だ。そう自分を戒めても、妬ましさに口許がひくつく。瞼を揉むふりで眼鏡を外し、ついでにレンズを磨いた。 「眼鏡なしの顔をいっぺん拝みたかったんだよな。おねがい煙草のご利益、ふたつめだ」  ちょうどそこにコーヒーが運ばれてきて、意味深な独り言はカップが触れ合う音にかき消されたが。  妹尾は早速カップを口に運んで目を細めた。ゆったりと背もたれに上体をあずけて、甘みと苦みが織りなす至福のひとときを堪能した。 「俺の前で蕩けそうな表情(かお)をして。罪作りな話だ」  と、紺野は小声でぼやきながらワイシャツの胸ポケットをまさぐり、ところが取り出したパックは空っぽだったとみえて、くしゃりと丸めた。新しいパックの封を切ると、薬品を調合する化学者さながらの真剣な面持ちで〝おねがい煙草〟の儀式をした。一連の工程を経たうえで、ようやく煙草に火を点けた。

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