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第3章 ココロ、軋む

    第3章 ココロ、軋む  特定の誰かの顔が折に触れて目の前にちらつくのは、恋の前駆症状──。  オフィスで営業日報を書いている最中のことだ。どこかで読んだ文章を、ひょっこり思い出した。  恋の前駆症状? ありえない。妹尾は頭をひと振りすると、紙を突き破る勢いでペンを走らせた。存在感の強い男は厄介だ。ちゃっかりと人の心の中に棲みついたばかりか、のさばり返る。  数日ぶりに晴れ渡った午後、妹尾は時間をやりくりして茶房に立ち寄った。紺野と関係を絶つなら絶つで、食ってかかったことを詫びてケジメをつけてからだ。頬っかむりを決め込む度胸がない自分は律儀というより貧乏性だな、と苦笑がこぼれる。ビルの谷間に虹がかかり、果たしてそれは吉兆と凶兆のどちらを意味するものだろうか。  いらっしゃい、と店主が笑いかけてくればとたんに掌が汗ばむ。紺野に会いたいのか、逃げ帰ってしまいたいのか、心の中の天秤が右に左に傾く。  しかも、茶房に紺野の姿はなかった。 (肩透かしか……)  妹尾は、ぎくしゃくと奥まったテーブルに歩を進めた。三十分だけ待とう、と決めてタブレットの電源を入れ、だがクリスマスフェアの企画を練り直すそばから人待ち顔を扉に向けてしまう。  そして、いよいよそのときを迎えると胃がきゅうと縮こまった。紺野は茶房に入ってくるなり、すさまじい剣幕で妹尾に詰め寄った。 「虫の居所が悪いときは誰にでもある。取引先にへいこらしなきゃならない営業にストレスは付き物だしな。けど、あの言い種にはムカついた。よって……」  思わせぶりに言葉を切ると、人差し指を妹尾の額にあてがい、バネを利かせて弾いた。 「デコぴんの刑に処す」 「痛っ! あなたは小学生男子ですか」  妹尾は、ひりひりする額をさすった。(まなじり)をつりあげ、それもつかのま噴き出した。仲直り、と握手を求められて、くすぐったいような思いで応じ、あらためて腰を落ち着ける。 「『妹尾さんに嫌われちゃったよぉ』って、ここんとこ毎日、カウンターに陣取ってクダを巻きっぱなしだったんですよ。いやはや、営業妨害だったこと」  恵比須顔で茶々を入れてきた店主に、 「本日のコーヒーはグァテマラか、それ」  殊更ぶっきらぼうに注文をすませると、紺野は一転して相好をくずした。 「喧嘩別れしたっきりってのは寝覚めが悪いからな。煙草の本数は増えるわ、メシはまずいわ、被害甚大だったんだぞ」 「では、罪滅ぼしに今日の勘定はおれが持ちます」  割り勘だと、ごねる紺野を制して伝票をさらいとれば、わだかまりが溶けていくように思えた。

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