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第12話

 悩み事が解決すれば仕事にも身が入る。さらに先日、目の当たりにしたてらいのない泣き顔が発奮材料になった。妹尾は受け持ちの書店めぐりにいっそう精を出し、配本で十分、と取次ぎに丸投げする店長を口説いて回った。地道な努力が実って、〝えいえんの原っぱ〟の注文数は日を追うごとに伸びていった。  京都特集、と銘打った雑誌が売り場を席巻するのは秋の風物詩だ。中吊り広告もそれに準じ、紅葉の写真に旅情をかき立てられるある夜、通勤電車の車内でぽんと肩を叩かれた。  妹尾はとたんに目縁(まぶち)が赤らむのを感じた。折りしもデコぴんにまつわるひと幕を回想して、思い出し笑いに口許がほころんだところに、当の紺野が真横の吊り革を摑んだのだ。 「同じ……沿線に住んでたんですか」 「いや、反対方向。大学時代の悪友が結婚することになって、披露宴でやる余興の打ち合わせを兼ねて、ゼミ仲間と飲み会だ」  次の駅で隣り合った席が同時に空き、並んで腰かけた。紺野は欠伸をすると、次の瞬間には寝息を立てていた。  縦横ともにひとまわり大きな躰が徐々にかしいで、もたれかかってくる。前髪がこめかみを掃きおろしていき、こそばゆさに首をすぼめると、紺野はますます体重を預けてきた。やんわりと押し返しても効果があるどころか、妹尾の肩を枕にして爆睡モードに入った。 (まったく、厚かましい……)  妹尾は、ため息をついた。意に反して、それは〝甘やか〟という要素を少なからず含んだものだった。起こしたら気の毒だ、と本を読むのもスマートフォンをいじるのも遠慮して、そのぶん肩口に視線が吸い寄せられた。  通常は、紺野と並んで立つと彼を見上げる形になる。それゆえ寝顔が見下ろす角度に位置する、という状況は新鮮だ。  退屈しのぎだ、と自分に言い訳しながら観察をつづける。起きているときと眠っているときでは印象がずいぶん違い、口辺に笑みが浮かんでいることも相まって意外なほどあどけない。右の眉毛の脇にちっぽけな黒子を発見して、得をした気分になった。 (モテるだろうな……)  ちり、と胸に痛みが走った。紺野の勤め先は一部上場企業だ。容姿、人柄、経済力、と三拍子そろっている男が合コンに参加すれば、女性たちの間で熾烈な争奪戦が繰り広げられることは想像に難くない。  自宅は反対方向と言っていたが、どこの街に住んでいるのだろう。大学では何を専攻していたのだろう。恋人はいるのか。妻帯者であっても、おかしくない年ごろだ。   もっとも妻子の有無を訊ねたら、藪蛇になるのがオチだが。  妹尾は肩を水平に保ったまま、眼鏡を押しあげた。ふだんはパーソナルスペースを侵されると、覿面に苛立つ。なのに肩に腕に温もりが伝わってくれば心が安らぎ、こうして紺野と寄り添うことが約束事のように思えてくる。  ひと月前には紺野の名前さえ知らなかったのに、現在(いま)では年齢をはじめ、愛飲する煙草の銘柄にも精通している。

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