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第16話
伏し目がちに灰を弾き落としたところに、紺野が脚本のト書きを読むような、のっぺりした口ぶりで切り出した。
「おでんが、うまい季節だな。来週末あたり、一杯つき合わないか」
一も二もなくうなずく寸前、妹尾はかろうじて首を横に振った。おあずけを食らったすえに餌にありついた犬ではあるまいし、ふたつ返事で誘いに乗るのはプライドが許さない。つんと顎を反らして、でまかせを並べた。
「生憎と来週は予定がつまっています。また、そのうち誘ってください」
口をへの字にひん曲げて〝おねがい煙草の儀式〟を執り行う紺野の様子に、やましさとない交ぜになった妬ましさを覚えた。
得意先回りをつづける間も、帰宅してからも悔やみっぱなしだった。〝そのうち〟とは、〝永久にその日は訪れない〟の同義語だ。
なぜ、せっかくのチャンスをフイにしてしまったのだろう。なぜ、事、紺野に対しては感情の触れ幅が大きくなるのだろう。
(あしたもまた、お茶できたら……)
おでんをつつきにいく話は有効ですか、と訊いてみよう。あるいは、こちらから焼き鳥屋にでも誘ってみるのも、ありだ。
茶房で行き会うか否かは毎回、運次第。首尾よく会えたとしても、お互い外回りの合間を縫っての小休止だ。制限時間が設けられているのも同然で、あわただしく右と左に別れる羽目になり、消化不良の気分に悩まされることになる。
一度じっくり差しつ差されつやれば、紺野に相対すると必要以上にツンケンしてしまう、その謎が解けるかもしれない。
ああすればよかった、こうすればよかった、と思い悩みながら更けていく夜は特に長い。隣室の同棲カップルの話し声が何かの拍子に洩れ聞こえてくれば、畳は赤茶けて砂壁にも傷みが目立つ部屋はなおさら寒々しい。
ソファに丸まった。本革の座面は高級感にあふれて、艶々しい。貸し衣装を着てパーティーに出席するように、このソファに不釣合いな自分とは異なり、紺野がこれに腰かけたとしたら誂えたようにしっくりするだろう。
ごろりと横になって、うたた寝しはじめるかもしれない。くつろぎついでに、妹尾に膝枕を要求するかもしれない。
──〝眠れる森の美女〟方式で、キスで起こせよ……。
紺野なら、言いそうだ。ためしにその場面を想像すると、なぜだか唇がひりついた。
(キス……やり方をわすれるくらい、ずいぶんしていないな……)
指先で唇の輪郭をなぞった。仮にこの将来 、性懲りもなくまた恋をしても、くちづけを交わす段階にこぎ着けるのは長期のリハビリを経てからになるだろう。
(紺野さんは芝居っ気のある人だから……)
巧みにロマンティックな雰囲気を演出するに違いない。そうだ、きっと恋愛経験も豊富だ。街角で不意討ちのキスを仕かけるくらい、朝飯前のはず。
ただし彼は背が高い。だから立ったまま小柄な女性にくちづける場合は、うんと腰をかがめる必要がある。これが妹尾とだったら、少し顔を傾ける程度ですむ……。
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