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第23話

「〝ウサギはぴょんと後ろあしで立ち上がりました。耳をちょん切られてしまったけれどへいちゃらでした。『さあ、また旅に出よう、もっと空が青くて素敵な原っぱは、きっとどこかにあるんだ』〟……」 「ぶつぶつぶつぶつ、微妙にキモいわ」  トイレに中座していた小田が、ストゥールに尻をひっかけながら妹尾を軽くこづいた。そして書類鞄で手元を隠しておいて、紺野を指差す。 「男前が凄むとド迫力だよな、っていうか、俺、敵認定されなかったか? だいたい何関係の知り合いなんだ?」 「……休憩はおしまいだ。出よう」  妹尾は、のろのろと立ちあがった。 (礼儀上、挨拶するだけだ……)    できるかぎり、さりげなくフロアを振り返って目を瞠った。紺野が今しも手にした煙草のパックは、まだ半分以上残っている。にもかかわらず〝おねがい煙草〟のルールを無視して、パックに逆さ向きに戻してあった一本を咥えとった。  願をかけても最後に吸わなければ効力を失うと、とっておきの秘密を打ち明けるように教えてくれた煙草を。妹尾の相手をするのに飽きた。ついでにゲンをかつぐのはやめた、といいたげに。 「おい、妹尾、薄情者。置いてくなって」  妹尾は脇目も振らずに駆けだすと、行き当たりばったりに四つ角を曲がった。急げ、と指令を発する脳に躰が従う。引き返したい、と心が叫ぶ。  ひとたび茶房に戻れば、こちらから絶縁状を叩きつけてしまうかもしれない。  壁と化したような背中にすがりついて、嫌わないでくれ、と泣きわめいてしまうかもしれない。  紺野に会えなくなっても、どうってことはない。醜態をさらすのは、真っ平だ。  相反する感情が妹尾を突き動かし、立ち止まることを決して許さなかった。自転車と衝突しそうになっても、マンホールの蓋につまずいても、眼鏡が跳ねても、ガムシャラに先を急ぐ。  気がつくと神田川に架かる橋のたもとまで来ていた。欄干にもたれて、荒い息づかいに波打つ胸を押さえた。  西の空は茜色に染まりつつあった。それに反して東の空は鈍色(にびいろ)の雲に覆われていた。  陰と陽が覇権争いを演じているような光景だ。それは、混沌として定まらない妹尾の心情の写し絵めいていた。  煙草のパックが胸ポケットからはみ出し、落ちそうになっていた。そもそもの始まりは、これだ。スモーカー同士の連帯感が自分と紺野を結びつけ、打ち解けていった。  それ以上でも、それ以下でもなかったはずなのに、いつしか別の要素が加わりはじめたように思う。  結局のところ、紺野とどんな関係を築いていきたかったのだろう。無二の親友、という称号がほしかったのか? 小田はいちばん仲のよい同僚だが、それでも休日に一緒に遊び歩くほどじゃない。学生時代の友人たちにしても進路が分かれて以来、いつしか疎遠になった。  それが現実で、友情に永続性を求めるのは虚しい。第一〝紺野〟で欲情しておきながら、今さら友情を育んでいきたいなどと、いいコちゃんぶるのはちゃんちゃらおかしい。

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