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第26話

(コーヒーが、飲みたいな……)  その信号を横断すれば駅はすぐそこ、という十字路にさしかかったせつな、炎天下を歩いているように喉がひりひりしはじめた。茶房は鬼門だ。だが、必ずしも紺野に遭遇するとは限らない。茶房をめざして、自然と駆け足になった。  お目当てはあくまでコーヒーであって、紺野じゃない。彼とひと悶着あって以来、茶房通いを自粛していたから絶品のコーヒーが恋しくなっただけだ。  本当は懐具合からいって、公営の喫煙所で缶コーヒーを飲みながら一服するのが分相応なのだ。だいたい二日にひと箱のペースで吸っていた煙草の本数を減らしてまでコーヒー代を捻出することを、涙ぐましい努力といわないか?   同様の理由で食費を切り詰めるに至っては、もはや滑稽という域に達している。  やはり引き返そうと道々、何度も臆病風に吹かれた。いよいよ茶房の前に立てば足がもつれ、恐るおそる扉を開けた。意を決して敷居を跨いだ瞬間、拍子抜けしたあまりへたり込みそうになった。  朝な夕なに目の前にちらついて、やましさと慕わしさを等分にかき立てた姿は、ない。  気まずい思いをするのを免れて、願ったり叶ったりだ。そう自分をなだめて、いつもの席に座る。ひとりで飲むコーヒーは苦みが強く、舌がざらついた。  得意先回りにさしつかえのない範囲で粘ったものの結局、しおしおと立ち去る羽目になった翌日も、そのまた翌日も茶房に寄った。  三日連続で待ちぼうけを食らったすえに、 「相方は足が遠のいちゃいましたね」  妹尾が店に入ったとたん、店主がおしぼりとお冷をカウンターに置いた。妹尾は苦笑交じりにストゥールに腰かけた。 「常連のおふたりがコンビを解消だと淋しくてね。うちはご覧のとおり……」  がらんとしたフロアに向けて、腕をひと振りした。 「年がら年中、開店休業状態でしてね」  おまんまの食いあげだ、と大げさにため息をついてみせるそばから客が数人、たてつづけに量り売りの豆を買いにきた。  妹尾は、壁に沿ってL字型にくぼんだ一角を振り返った。紺野の指定席だったテーブルを挟んで彼と都合何度、語り合っただろう。  紺野は話し上手の聞き上手で、何より深みのあるバリトンは耳に心地よかった。得がたい時間だった、と思うと胸が締めつけられた。取り戻せない、と思うと唇がわなないた。  月は太陽光を受けて、初めて(さや)かに輝く。それと同じだ。紺野の存在そのものに(かつ)えているのだ、と今さらめいて思い知った。  紺野を欠いた茶房は廃墟のように殺風景に見えるのはなぜなのか、答えはすぐそこにあるはず。だが縄の一端だと思って摑んだものが蛇の尻尾だった、という例にも似て、模範解答を知るのが無性に怖い。

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