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第7章 キスは特製絆創膏

    第7章 キスは特製絆創膏  火の用心、と夜回りが拍子木を打ち鳴らしながら通り過ぎていった。妹尾は、泣き濡れた顔をワイシャツの袖口でぬぐった。  頭が、ぼうっとする。恥ずかしくて紺野を直視できない。だが、数十年がかりで脱皮を果たしたように気分は爽快だった。  泣き腫らした目をしばたたいた。あえて、ぴょこんとお辞儀をした。 「泣きすがってきたのが美女じゃなくて残念でしたね。でも、おかげですっきりしました。紺野さんがもしも泣きたくなったときは、貧弱な胸でよければお貸ししますよ」 「近視の人間の視線は焦点が微妙にぶれて、変にエロい。そそられて、ヤバい」  と、唸り声が返った。今野は自分に枷をはめるように腕組みをしたかと思えばほどいて、天井を睨みつける。臨界点、と舌なめずりをすると、指を添えて細い(おとがい)を掬った。  仰のかされた。予想外の展開にまごついているうちに、おぼろに霞む視界にくっきりと浮かびあがったものがあった。  それは、唇だ。煙草の苦みをまとったそれが紺野のものだと認識したのは、唇を盗まれたあとだった。  前髪が吐息にそよぐとともに、再び唇をついばまれた。一拍おいて、さらに強めに。 「世界中の子どもに愛情と栄養を、疲れた心にはキスを」  さしずめブレーカーが落ちた状態にあったため、驚きは遅れてやってきた。唇の輪郭を舌でなぞられたうえに、ゆるめろ、と催促がましく合わせ目をノックされてはじめて、心臓がばくばくしだした。  妹尾がカラクリ人形なら、ここでようやくゼンマイが巻かれた。尻でいざって座面を後ろにずれた。もっとも紺野がこちら向きに上体をひねると、たくましい躰と肘かけに挟まれる形になって身動きがとれない。背もたれを摑んでもたもたとずり上がったところに覆いかぶさってこられて、仰向けに倒れこんだ。  すかさず三度(みたび)、唇を奪われた。罵声を浴びせたものの、それは唇のあわいに虚しくくぐもり、しかも裏目に出た。  口をあけた機に乗じて、ぬるり、と舌が口腔を侵入を果たした。  妹尾は頭を打ち振って抗い、しかし紺野にキスされるなど現実味にとぼしい。熱があがってきて、夢とうつつの境をさまよっている中で想像の翼を広げているのかもしれない、と思えるほどに。  髭の剃り跡が、ざらり、と口の()にこすれた。それで我に返ると同時に、妹尾は今さらめいてもがきはじめた。  「どいてください。冗談にしても悪質です」 「俺は、むずかる姪っこをあやすのが抜群に上手い。妹尾さんにチュウしたのはそいつの応用編で、言ってみれば慰め屋のデリバリーサービスだ」 「寝言は寝てほざけと言うでしょうが。そんな滅茶苦茶な理屈、聞いたことがありません!」  胸板に両手をつっぱって紺野を押しのけにかかれば、その両手を左右ひとまとめに握りとられて、万歳する恰好に肘かけに縫いつけられた。妹尾は柳眉を逆立てた。逆光に沈んで表情を読み取りづらい顔を()めあげるとともに、事と次第によっては蹴りをみまってやるべく、利き足を胸元に引き寄せた。

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