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第35話

   それから、わざと全身の力を抜いて油断を誘い、ところが一転して蒼ざめた。おくびにも出さなかったはずだが、一度ならず二度までも〝紺野〟をいわゆるオカズに用いたことに感づかれて、それで制裁を加えられているのでは……? 「風邪が伝染(うつ)りますよ!」 「自分の貞操より俺の心配か。妹尾さんらしいな」  ガムシャラに身をよじっても、縦横ともにひと回り大きな躰はびくともしない。それどころか掌で顎を固定されたところに、キスが舞い落ちた。舌に嚙みついて目にものを見せてやるつもりが、下唇の膨らみを食まれると、結び目がやわらかくほどけていく。  咄嗟に唇を(とざ)した。だが執拗に唇をすりつけてこられたすえに根負けした。  キスのひとつや二つ、減るものじゃない。勝手にしろと、ぐったりと手足を伸ばしたとたん、抱き起こされた。  あばら骨がみしみしというほどの力で抱きしめられて、呼吸(いき)もできない。息継ぎをする要領で、うっすらと口を開けば紺野の思う壷。  歯列をこじ開けた舌が、妹尾のそれを求めて口腔を泳ぎ回る。回を重ねるごとにキスは深まり、ある種、免疫ができたように抵抗感は薄れていった。 (がつがつ来るタイプっぽいのに……)  肉食系、という物腰とはあべこべに、舌づかいは思いのほかぎこちない。うなじに添えられた手は明らかに震えていて、ファーストキスにしゃっちょこばる中学生を連想した。  薄目をあけて紺野の様子を窺った。両の(まなこ)は固く閉じられていて、洗礼式に臨む敬虔な信者という趣さえあった。  無地のものと柄物のそれ。二本のネクタイが藻のように揺らめいて絡み合う。ほろ酔い加減のときのような夢心地にいざなわれていくにしたがって、開き直る面もあった。 (醜態をさらしたのは結果オーライか……)  そう、現実逃避に走る。怪我の功名だ、眼鏡を外してあったおかげで、フレームが頬にめり込む事態は避けられた。  さらに場違いなことに驚嘆した。いちど自転車を乗りこなせるようになっていれば、何十年かぶりにサドルに跨っても、足は独りでにペダルを漕ぎだす。  あれと同じ原理だ。キスの作法は忘れたと思っていたのに、舌を吸い返すコツは躰がちゃんと憶えていた。  鬼ごっこに興じるふうに舌と舌でじゃれ合うちに躰の芯が蕩けて、吐息がまろみを帯びていく……。  自然と紺野のうなじに腕を巻きつけていた。そのうえでこちらから口腔を荒らしにいけば、切なげな響きをはらんだ呟きが唇のあわいをたゆたった。  ──願い事の五、クリア……。

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