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第41話
妹尾がまごついている間に紺野はコートを羽織った。書類鞄を小脇に抱えると、殊更きびきびと玄関へ向かった。
「じゃ、おじゃまさま。おやすみ」
「あっ、あの……」
反射的にコートの袖を摑むと、広い背中が覿面に強ばった。
妹尾は口をぱくぱくさせた。つい引きとめてしまったものの、予備の寝具もないのに、まさか泊まっていけと言えるはずがない。紺野はすでに靴を履き終えていて、帰らないで、と駄々をこねる子どもさながらの自分の態度に、なおさら舌がもつれる。
(おやすみを言うだけなのに……?)
なぜ、異様なまでに口ごもる? かつて例の婚約者にプロポーズしたとき以上に緊張しているかもしれない。どっ、どっ、どっ、とやかましい心臓の上を押さえた。唇を舐めて湿らせて、やっとのことで言葉を継いだ。
「駅までの道順はわかりますね」
甘い科白を期待して損した。そう言いたげに肩が落ちた。紺野は大げさにずっこける真似を交えて、妹尾に向き直った。
「カタブツなどなんだのと、くそアマにけなされたと言ったが。俺は、妹尾さんの生真面目なとこは美点だと思うし、それを理解できないヌケ作は熨斗をつけてくれちまえ」
掌に拳を叩きつけると、一転して目尻に優しい皺をきざんだ。
掛け値なしに心臓が破裂してしまいそうなくらい、鼓動が速まった。妹尾は横っ跳びに飛びのき、むこうずねを流し台の角にぶつけてうずくまった。だが、ちょいちょいと差し招かれるとつりこまれてしまう。恐るおそる上がり框に戻るのを見計らって、紺野が腰をかがめた。
額をついばまれた。甘酸っぱいものがひたひたと胸に満ちて、それが手足を操る。矢も盾もたまらない。妹尾は爪先立ちになると、少しかさついた頬に唇を寄せて返した。
すると紺野は、にやりと嗤いながら後ろ手にノブを回した。
「セオリー的に、おやすみのチュウは外せないってことで実行してみたんだが。おかわりを催促されるほど好評だとはな」
「あなたを部屋にあげたのは人生最大の失敗、汚点です。紺野さんは」
大きな躰を共用廊下に押し出すのももどかしく、ドアをぴしゃりと閉めた。
「どスケベのチャラ男で人類の敵です」
ほがらかな笑い声が夜空に響き渡った。妹尾は聞こえよがしに鍵をかけて、チェーンも下ろした。お清めの塩も撒いてやりたい気分だった。
「さあ、ゲン直しに風呂に入ろう」
そうしよう、と腕まくりをするそばから指が唇に伸びる。指の腹で輪郭をなぞった。やや肉厚な唇の感触があえかに消え残っていて、それを恋うてやまないというように、憂色をたたえて。
ドアに張りついて耳をそばだてる。靴音が遠ざかっていき、やがてあたりが静まり返ったあとも、三和土に立ち尽くしていた。
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