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第8章 答えの出ない方程式

    第8章 答えの出ない方程式  躰が微妙に右にかしぎ、妹尾は爪先を立てながら上体をひねった。案の定、靴底がすり減っている。履きつぶした靴は営業マンの勲章だ、と足を速めた。  各出版者の営業マンの間で、激戦区、という異名をとる地区を担当していた同僚が、ここにきて胃潰瘍で入院した。妹尾にも彼が受け持っていた書店が割り振られて、おかげで朝から晩まで出ずっぱりだ。  当然、茶房でひと息入れる暇などあるはずがない。俺を避けている、と紺野に曲解されるのは業腹だ。だからといって、カクカクシカジカとしたためた手紙を店主に預けにいく義務もない。  その夜、家路をたどる後ろ姿には、いつにもまして孤独の影が色濃く漂っていた。紺野が急な海外出張で茶房に来られない日がつづいたと思えば、今度はこちらの番。  きっと、とことん相性が悪いのだ。第一、に関して気持ちの整理がつくには程遠い。茶房に行かなくてすむ大義名分が立つのは、好都合だ。 (被害者面もできないし……)  紺野を〝オカズ〟に用いたことでおかしなフェロモンが出ていて、それが彼の脳内の性欲を司る部位に、妙な具合に働きかけたのかもしれない。  ただ、抱きしめられたのは誤算だった。下手に人肌に触れたことが災いして、あれ以来、禁断症状が出るようなのだ。  寝た子を起こしてくれた点では、紺野が恨めしい。だいたい自分ばかりぐるぐると悩む羽目になって、不公平だ。  妹尾は石ころを蹴飛ばした。そうだ、紺野とはイコール悩みの種なのだ。午後に、とある書店を訪れて〝えいえんの原っぱ〟をはじめとする新刊の魅力を熱っぽく語っているさなかに、痴態を演じたさいのあれやこれやが瞼の裏にコマ送りで映し出されて、 「いきなり真っ赤になってインフルエンザとかだったら勘弁してくださいよ。アルバイトがばたばた辞めて、きりきり舞いしてるんだから伝染(うつ)されたら恨みますからね」  店長に露骨に嫌な顔をされた。そこで、へどもどするようでは、平台をめぐって熾烈な争いを繰り広げる他社の営業マンにだしぬかれても文句は言えない。  ため息ひとつトートバッグを揺すりあげた。アパートに帰り着き、集合ポストの蓋を開けたときだ。  視界の隅でコートが翻った。反射的に共用廊下を振り仰ぐと、紺野が手すりから身を乗り出した。  ことり、と心臓が跳ねた。無視するのと、にこやかに接するのと、この場合の対応として正しいのはどっちだ?     ここは後者の案を採用しよう、と決めた。  かといって、突撃訪問を歓迎していると解釈されても困る。妹尾はダイレクトメールを丸めながら、ゆっくりと階段をのぼりつめた。のろのろと廊下を進み、そこを境にして結界が張られているように、隣室のドアの前で立ち止まった。  笑顔をこしらえる? 無理だ、天邪鬼モードのスイッチが入ってしまった。

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