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第44話
妹尾はうつむきがちに蟹の身をせせった。懐が深いのか、それとも博愛主義者なのか、とにかく紺野英生という存在そのものが謎だ。妹尾さんは潔癖症だと思っていた、とでも嫌みったらしくあの件を蒸し返すことがあれば、即座にお帰りねがえるのに。
そんな詮無いことを考えながら、もそもそと春菊を食べた。
と、紺野が蟹の汁にまみれた指をねぶった。無意識にそうしたにすぎないのだろうが、残滓を舐めとったさいの光景がオーバーラップした。春菊が喉につかえて、妹尾は目を白黒させた。
「営業マンは体力勝負だ。ガッツリ食えよ」
紺野は食欲旺盛で、そのうえマメだ。甲羅をぱかりと割ると、蟹みそで和えた身を妹尾の取り皿によそった。
「妹尾さんはスリムを通り越して瘦せすぎだ。力いっぱい抱きしめたら折れち……」
咳払いで濁されたが、フラッシュバックに襲われた。指が小刻みに震えて殻入れがひっくり返る。湯気でレンズが曇ったふうを装って、せわしなく眼鏡を外したりかけ直したりした。
結局、シメの雑炊を作るところまで紺野に任せっきりで、はちきれそうな腹をさすった。
「ごちそうさまでした。久々の贅沢でした」
「お粗末さま。冬はやっぱり鍋だな。また材料を持ってくるから、土鍋なんかはキープしといてくれ」
「うちはトランクルームじゃありません」
「蟹は美味かっただろう。保管料だ」
と、ウインクで妹尾をいなしておいて、紺野は逆さ向きにパックに戻してあった煙草を咥えた。それから新しいパックの封を切り、〝おねがい煙草〟の儀式をした。
「おれなんかをかまう暇があるなら本命にアタックするほうが、遙かに建設的ですよ」
「俺が好きな相手は自己評価が極端に低くて、おまけに鈍感だ。長期計画でモーションをかけてる最中なんだが、隙がありそうでなくて、玉砕しまくりだ」
不敵な笑みを浮かべてライターを鳴らす。
「まあ、百回フラれても百一回口説けばいい。ネバー・ギブ・アップってやつだ」
「浮気性のわりには一途なんですね」
「浮気性とはなんだ。人聞きの悪い」
想い人がいるくせに妹尾にちょっかいを出す。二枚舌を使うこれが浮気性でなければ、なんだというのだ。
もっとも妹尾に悪戯したのは看病の延長で、それ以上でも、それ以下でもあるはずがない。紺野は何事も人生勉強と位置づけて、不埒な所業におよんだに違いない。
「見解の相違、ということにしときましょう。本命とうまくいくよう健闘を祈ってます」
妹尾は努めてにっこり笑った。グラスも取り皿も一緒くたに重ねた。
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