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第9章 ハリネズミの憂鬱

    第9章 ハリネズミの憂鬱  ヒデオ、と呼ぶ声にどきりとした。  妹尾はクリップボードを取り落としかけた。声がした方向をぎくしゃくと振り返って、胸を撫で下ろす。ヒデオ、ともういちど話しかけたのは制服姿の女子高生だ。その()は、紺野とは似ても似つかない優男と頬を寄せ合って雑誌を覗き込んでいる。 〝ヒデオ〟、イコール英生。  ヒデオ、という名前をレーダーが捕捉ししだい、紺野の顔を思い浮かべる、というプログラミングがなされているようだ。  眼鏡をかけなおした。クリップボードも抱えなおし、欠品補充リストに印をつけていく。クリスマスシーズンだけのことはある。わかくさ書房の刊行物の中でも、サンタクロースが主人公の絵本の捌けぐあいが断トツだ。  おっちょこちょいのサンタクロース、トナカイのおつかい。そういった惹句が帯に躍る絵本が棚差しになっていた場合は、すかさず回転式のラックに移し替える。  それにしても、とボールペンの先でこめかみを搔いた。ラブソングをはじめとして、恋をテーマにした作品が(ちまた)にあふれていることといったら、全人類の主食が恋であるかのようだ。   この書店にしても、そうだ。映像化特集、と銘打ったコーナーが一角に設けられていて、映画やドラマの原作になった恋愛小説が、これでもかと並べられている。  妹尾は恋愛小説は苦手だ。というより、食わず嫌いを決め込んでいる。なのに魅入られたように、究極の恋愛小説と謳ったベストセラーを手にとった。そのくせ棘が刺さりでもしたように、あわてて台に戻す。ことさら大股でフロアを横切ると、コミックスの売り場で袋詰めの作業中だった店長に挨拶した。 「おじゃましました。差し入れの鯛焼きを事務所のほうに置いてあるので召しあがってください」 「ごちになります。そうだ妹尾さん、〝えいえんの原っぱ〟をひとりで十冊も買っていかれたお客さまがいましたよ。作家さんのご家族か何かですかね」 「もしかして……背の高いワイルド系のイケメンじゃないですか?」 「そうです、そうです。リーマンらしからぬ男前って、あれ? 知り合いですか」  笑ってごまかした。もう一軒、また別の一軒と受け持ちの書店を訪ねてまわる間中、通奏低音のように耳の奥でリフレインしているものがあった。それは〝えいえんの原っぱ〟の一節をそらんじてみせたさいの、紺野のまろみを帯びた声だ。 (まとめ買いして、お歳暮代わりに親戚にでも配るつもりだったりして……)  などと茶化さないことには街中で涙ぐんでしまいそうだ。紺野はブレない。図太いように見えて人一倍、神経が濃やかだ。  思わせぶりな態度をとっておいて掌を返したのは、おとといの夜のことだ。仮に自分が紺野の立場だったら、こんな根性の腐ったやつにはつき合いきれない、と匙を投げていたはず。紺野の寛容さに甘えて、わがまま放題にふるまう。いつのまに、こんなに性格がゆがんでしまったのだろう。  結局、悲劇の主人公という看板を背負って歩くのが好きなのだ。同情を買おうとしているのだ。

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