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第54話
仮に誘いに応じた場合。カップルがあふれ返る街を紺野とそぞろ歩く? 偶然を装って手をつなぎ、何人 たりともふたりの邪魔をするのは赦さない、と言いたげにぴたりと寄り添って……?
跳ね起きた。火照ってしょうがない頬を右手で扇ぎながら、すぱすぱと煙草を吸った。
(紺野さんは、イケズだ……)
明けても暮れても妹尾の頭の中は、紺野でいっぱいだ。彼の面影が目の前にちらつくたびに、百面相さながら笑みがこぼれたり、眉が八の字に下がったり、口がとんがったりしているだなんて、当の紺野は夢想だにしないに決まっている。
くちづけで伝染 る奇病に冒されているように唇が疼くに至っては、もはや末期症状だ。
その感情は制御不能だと古今東西、数多 の詩人が詠ってきた。名君と呼ばれる者ですら、ひとたびそれの虜になれば身を滅ぼした。
隕石が落ちてきたような衝撃をともなって、理性や判断力を奪うそれは──恋。
恋は盲目とは言いえて妙だ。悪女にたぶらかされたあげく笑いものになった妹尾が、ほかでもない生き証人だ。
あれ以来、病的に臆病になった。丸まって外敵から身を護るハリネズミのように、自分の周りに垣根をめぐらせて気持ちに蓋をしてきたのだ。
おそらく、とっくの昔に答えは出ていた。
ペンギンのくちばしを撫でた。紺野もテストを兼ねて、一度くらいはシャボン玉を飛ばしたことがあるのだろうか。うたかたの夢と消えるシャボン玉に揺らめく恋心を重ねて、切なくなったことがあったのだろうか。
石鹸水を作ってきた。天井に向けてシャボン玉を飛ばすと蛍光灯に反射して、波璃のようにきららかに輝く。
なのに、今さらのように孤独感に襲われたせいだ。美しいはずのシャボン玉がにわかにくすんで見えて、淋しい。
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